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目次
大規模港漑施設の発見…………………………1
いたみ歴史ウオッチング…………………2〜5
伊丹市周辺の石造文化財…………………6〜12
岡田柿街没後二十年をむかえて…………13〜16
平成15年度博物館もよおし案内………………16
事業の回顧・編集後記……………………17〜18

大規模濯漑施設の発見
-猪名川流域の水稲耕作はいつ始まったか−
小長谷 正治

 平成13年8月から、大阪国際空港の西側に沿って行われる「空港周辺緑地事業」地域内の追跡発掘調査が始まりました。市教育委員会では、緑地事業地域全域の遺跡の状況を確認すべく、全域の試掘調査を行いました。
 この一帯には、森本遺跡、岩屋遺跡など弥生時代〜古墳時代の遺跡に加えて、奈良時代以降の条里の跡がよく残っていることでも知られています。また、南側には縄文時代晩期〜弥生時代にかけての口酒井遺跡や弥生時代の田能遺跡、原田西遺跡などが広がり、猪名川流域の豊かさを示しています。
 緑地事業地域は、約10haに及んでいるため、平成12〜14年度の3カ年で試掘調査を行い、その結果、遺跡が確認された範囲については県教育委員会が本格調査を実施しています。試掘調査は昨年度末で完了し、本格調査は13年度から行われ、今年度で完了する計画となっています。
 これまでの発掘調査で特筆すべきは、弥生時代中期から古墳時代にかけての水路で見つかった堰です。この堰は、8m幅の流路を塞ぐように丸太を斜めに幾段にも組み合わせ、その上を植物で覆っていることがわかりました。確認された堰は、十数mの間隔で2筒所見つかり、今年度本格調査が行われる森本遺跡の試掘調査でも1箇所確認されています。
 堰はダムの役割をもち、塞ぎ止められた水が小規模な水路に流れて水田を潤します。岩屋遺跡から森本遺跡の一帯には、奈良時代以降、条里制が施行され、計画的・本格的な水田開発が行われていますが、それ以前の人々は、苦労してこのような水利施設を設け、水田開発を行っていたことがわかりました。
 猪名川流域の水田開発の最初は、縄文時代晩期、口酒井周辺で始まったことが発掘調査によって知られています。現在のところ、水田そのものは未発見ですが、炭化した籾、籾跡の残る土器、稲の穂先を摘み取るための石包丁が発掘されています。当時の水田や水利施設が発見されていないため、はっきりとしたことはわかりませんが、当時の水稲耕作は、水田好適地を選んで小規模に行われていたものと推測され、それが、後に水田経営の知識や土木技術を学び、先に述べたような大規模な灌漑施設を設けて、新田開発を行っていったと考えられます。
 このように考えると、猪名川流域の水稲耕作の画期は、開始期の縄文晩期、自然の流路に手を加え、堰や水路を整えて新田開発を行った弥生時代中期から古墳時代、広範囲にわたって計画的に新田開発が行われた奈良時代以降の3段階に分けられるでしょう。
 最近の新聞には、弥生時代の始まりが、これまでの定説より500年、紀元前10世紀まで遡ることが大々的に報道されていました。もっとも早く稲作を始めた北部九州地域の追跡の年代測定の結果ですが、もちろん、畿内で最も早く水稲耕作が始まった口酒井遺跡の年代にも関わつてきます。
 年代測定法には、炭や木材などの放射性炭素を測定する方法、木材の年輪からその木の伐採年代を測定する方法、焼土に残る残留磁気を測定する方法が知られていますが、今回の測定方法は放射性炭素測定法によるものです。
 この方法に用いる炭素14は、大気中の二酸化炭素の中で占める割合が一定しており、それを光合成によって取り込む植物やそれを食する動物の体内にも同じ割合で存在し、死ぬと新たな炭素を取り込めなくなり、一定の速度で減少していく性質があります。従って、炭素14の量を測定すると死後の経過年代が知れるわけです。
 口酒井遺跡では、この方法により、昭和60年に行った第12次調査出土の縄文時代晩期から弥生時代前期の土器の年代が、紀元前620年+-40年、同580年+-20年であることが報告されています。初めて、この年代に接したとき、あまりに古い年代が測定されたと思いましたが、今ではこの年代が真実に近い可能性がでてきました。
(教育委員会生涯学習部副主幹)

いたみ歴史ウオッチング
有岡城跡の変遷
安達 文昭

 JR伊丹駅前にある有岡城跡(国指定史跡)は、ここ二、三十年ほどの間に、大きく様変わりした。周囲の景観も一変したが、とくに平成十四年(二〇〇二)秋には、本丸跡の中心部に巨大な歩道橋が登場。また、城跡の丘陵へ通じるエスカレーターもお目見えしている。
 それにしても、荒木村重の築城当時、有岡城はどのような様相をみせ、その後どのような経過をたどって、現在に至ったのであろうか。
 この機会に、有岡城の歴史とその城跡の移り変わりについて、検証してみたいと思う。

一、在りし日の面影(戦国時代)
 有岡城のルーツは伊丹城であった。嘉元元年(一三〇三)の史料に「攝津國伊丹村」の文字が見えるというから、そのときすでに伊丹氏の城下集落が形成されていたのであろう。伊丹城は以来、二百五十年以上もつづいた。
 ところが、天正二年(一五七四)、池田城の家臣だった荒木村重(一五三五〜一五八六)が伊丹氏を倒し、伊丹城へ入城。そこを居城と定めた村重は、城の名を「有岡城」と改め、織田信長配下の摂津守として君臨する。
 旧来の伊丹城を大幅にモデルチェンジし、村重によって拡張・強化された有岡城の領域は、北は猪名野神社(宮ノ前三丁目)から南は鵯塚(伊丹七丁目)まで。淡路島の形状に似た南北一・五キロの高台が、そっくりそのまま、城郭史上初めての総曲輪(城壁の中に本丸・侍町・町人町・出城などを包み込んだ “総柄え”の城)だったという。。城内に城下町があるその珍しい城は、外周を土塁と外堀で取り囲み、要所に砦(出城)を設けて、強固な防禦ラインを布いていたようだ。
 だが、そうした在りし日の有岡城のたたずまいは、もはやしのぶべくもない。天正七年(一五七九)、村重の謀叛が発端となつて有岡城は落城し、城は再興されぬまま四百二十年以上もの歳月が流れたからである。
 現在、昔日の面影をかいま見ることができる物的証拠は、もうわずかばかり。それは、起伏に富んだ本丸跡付近の地形、そこに残る戦国時代の石垣と土塁、猪名野神社に現存する土塁、鵯塚の砦跡くらいのものであろうか。
 ただし、当時の史料が在りし日の様子を克明に伝えてくれる。『信長公記』は天正七年十月十五日(落城)の条で、「町をば居取にいたし、城と町との間に侍町あり、是れをば火を懸け、生か城になされたり」と描写。また、同年十月二十四日付の『遠江徳川家康宛織田信長黒印状』には、「仍伊丹事、外構悉打果、天守計攻詰候」と記されているのだ。
 これらの記述は、いったい何を物語るのであろうか。有岡城が「外構」(城壁)で防禦ラインを固め、その内部には「城と町との間に侍町」のある、“総構え”の城であったことを示唆しているように思われる。
 それと、もう一つ。『寛文九年(一六六九)伊丹郷町絵図』に描かれた町の様子が、往時の面影を彷彿とさせてくれる。落城から九十年後、伊丹が酒づくりの町としてよみがえった当時のものであるが、この一枚の古い絵図には、興亡の戦国ロマンと江戸時代のにぎわいが凝縮されているような気がしてならない。

二、外堀破壊(江戸時代中期)
 有岡城の落城後、その城下町(伊丹郷町)は日本一の酒造産業都市として栄えた。寛文六年(一六六六)に三十六軒であった伊丹の造り酒屋は、正徳五年(一七一五)には七十二軒と倍増。現在の産業道路の界隈に、ズラリと酒蔵が建ち並んだという。
 その間、伊丹郷から江戸へ積み出された清酒は、年間およそ二十万樽(一樽=七十二リットル入り)。ピークの文化元年(一八〇四)には二七七、七〇四樽の新記録を達成している。当時、伊丹の酒は「剣菱」「白雪」「男山」「老松」などが人気ブランドであった。
 さて、有岡城跡が“開発”の第一弾を浴びるのは、この時代である。つまり、城の東側(崖下)の外堀に駄六川の水を引き込み、酒荷を積み出す船着場が設けられたからだ。そのとき、北堀(本丸の北側)は埋め立てられ、辺り一帯が酒樽置場になつたといわれる。
 その時期は、いつだろう。伊丹の酒づくりは生産量の八十パーセントを江戸へ積み出す、いわゆる近世江戸積酒造業であるが、大坂−江戸間に酒荷専用の樽回船が就航するのは正保年間(一六四四〜一六四六)のこと。猪名川通船が許可されたのはそのあと、天明四年(一七八四)である。このとき、有岡城の外堀の一部が破壊され、船着場に姿を変えたと考えられる。
 こうして、伊丹の酒を満タンにした酒樽は、その船着場から高瀬舟で猪名川を下り、伝法村から樽回船に乗り換えて、海上ルートで江戸へ旅立って行ったのである。これによって、輸送力が大幅に増強されたのはいうまでもない。
 そのころ、有岡城跡はすっかり荒れ果て、一面に野イバラが群生していたのであろうか。伊丹生まれの俳人・上島鬼貫(一大六一〜一七三八)は、その荒涼たる光景を、「古城や茨くろなる蟋蟀」と詠んでいる。

三、鉄道開通(明治時代中期)
 有岡城跡を“開発”の第二弾が襲ったのは、明治二十年代であった。城跡に鉄道を敷設するという大規模プロジェクトに巻き込まれたからだ。このとき、本丸跡の東半分は段丘崖もろとも切り崩され、跡形もなく姿を消す。
 有岡城の本丸は方二町(約二百二十メートル四方)の広さだったが、その東側半分が、ブルドーザーもない時代に掘削されたわけだ。
 ちなみに、現在のJR伊丹駅や駅前道路などが、そのとき失われた城の跡地である。それと、駅のすぐ南側、二百メートルほどの区間を、列車は切り断ったような崖の下を走る。これは、レールをまっすぐ通すため、崖が垂直に切り取られたときの名残であろう。
 在りし日の有岡城は東に張り出した崖の上に本丸があり、その西側に侍町や町人町が連なって、“町ぐるみの城塞”を形成していた。天正四年(一五七六)にその“総構え”の有岡城を訪れたポルトガルの宣教師、ルイス・フロイス(一五三二〜一五九七)は、「甚だ壮大にして見事なる城」と称賛したほどだ。
 しかし、明治の人々は、“不人気”な荒木村重の居城跡を保存するよりも鉄道の開通を熱烈に歓迎しただろう。それでなくても、すでに明治十年(一八七七)、神戸−大阪−京都間に官設鉄道(東海道本線)が開通していたから、なおさらのこと。文明開化のシンボル“陸蒸気”が尼崎から乗り入れ、伊丹の停車場にその姿を現したとき、人々の歓迎ぶりはいかばかりであったろうか。
 ところで、伊丹の鉄道史だが、まずSLに先立って明治二十四年(一八九一)、伊丹−尼崎間に川辺馬車鉄道が開通。馬が客車を引っぱってレールの上を走るわけで、まさしくこれが文明開化の“はしり”だったともいえよう。
 それが二年後の明治二十六年、蒸気機関車の摂津鉄道となつて尼崎−伊丹−池田を結び、その後、阪鶴鉄道に受け継がれて同三十年に宝塚まで、同三十二年には福知山まで延長された。こうした経緯をへて明治三十九年(一九〇六)、鉄道国有法が公布される。その結果、翌四十年、阪鶴鉄道は政府に買収され、国鉄福知山線(現JR)となったわけである。
 そのころ、国鉄伊丹駅にはレールをまたぐ跨線橋があり、駅舎は木造の小さな平屋建てだったはず。線路はむろん単線である。

四、都市開発(昭和時代後期)
 大正九年(一九二〇)、阪急電車が伊丹の町へ乗り入れた。神戸線と同時に、伊丹線が開通したのである。この年、第一回目の国勢調査が行われ、伊丹町(旧伊丹町・北村・大鹿村・天津村・北河原村)の人口は九、五三七人。のちに合併する稲野村は五、三五四人、神津村は一、九〇九人だった。
 その後、昭和十五年(一九四〇)に伊丹町は稲野村と合併して「伊丹市」となり、さらに神津村、長尾村南部を編入。伊丹市の人口は昭和三十六年(一九六一)に十万人を越え、同四十五年(一九七〇)には十五万人を突破する。
 人口の急増で中心市街地(有岡城“総構え”の領域=旧伊丹郷町)が手狭となったせいか、昭和四十年代には、伊丹市役所も阪急伊丹駅も元の場所から現在地へ移転。産業道路は大きく拡幅され、宮ノ前地区も大規模な市街地再開発が行われることとなった。
 そうして、有岡城跡にも“開発”の第三弾が及ぶところとなる。国鉄伊丹駅前の再開発だ。その主な経過を時系列的にみておきたい。
 ▽昭和四十八年(一九七三) − 国鉄福知山線の複線電化に伴い、伊丹市は伊丹駅前周辺整備事業に着手。古くなった駅舎の改築、城跡の丘陵開削による駅前広場の新設、駅前道路の拡張など、都市計画が決定する。
 ▽昭和四十九年 − 伊丹市は工事計画の具体化を推進。これと併行し、伊丹市教育委員会は鈴木充・大阪市立大学講師(当時)に意見を聴取した。鈴木氏は「有岡城は伊丹段丘全体を城郭とし、外構を備えた珍しい城」と指摘。これを受けて、市教委は都市計画の変更を求めた。しかし、市当局は「計画変更は困難」とし、伏見正慶市長(当時)に決断をあおいだ。その結果、緊急発掘調査が行われることとなった。
 ▽昭和五十一年 − 駅前にある本丸跡が発掘され、石垣の遺構が発見された。そこは、「寛文九年伊丹郷町絵図」に「本丸」と書き込まれた場所で、主城の西北隅だ。土塁の内側に埋もれていたその石垣は、自然石の野面積み。石材の一部に宝篋印塔の基礎や一石五輪塔などが転用されているのが特徴的だった。L字型に連なる石組みは荒木村重が築いたもので、安土城の石垣よりも古く、戦国時代最古といわれた。
 ▽昭和五十二年 − 石垣発見現場の南百メートルの土中から、庭園跡の遺構が姿を現した。泉水跡や庭石、溝石などが出土したのである。荒木村重は“利休七哲”に挙げられたほどの茶の湯の達人であったから、その庭園には風流な茶室もあったのだろう。とにかく、有岡城の本丸には築山に池を配した本格的な日本庭園があったとみられ、家城(和戦両用の城)の先駆をなす貴重な遺構として注目を集めた。
 以上のような経過を踏まえ、この年の秋、伊丹市は国鉄伊丹駅前の開発計画を大幅に修正。石垣が出土した金光教会跡や庭園遺構が見つかった荒村寺跡などを保存し、国の文化財指定を受けたいとの意向を示した。
▽昭和五十四年 − 文化財保護審議会は、有岡城跡を国の文化財に指定するよう、文部大臣に答申した。忘れられて放置され、全面壊滅の危機にさらされていた荒木村重の居城跡が、栄光の「国史跡」に輝いたのである。その指定範囲は、(1)国鉄伊丹駅前にある本丸跡(明治時代に切り崩されなかった西半分三、三二〇m2)、(2)旧伊丹郷町の最北端にある出城跡=猪名野神社(一一、三〇九m2)、(3)郷町西境に連なる外構跡=道路・水路(延長二、一二二m)の三カ所だ。個別に存在する“点と線”が国の史跡に指定されるのは、珍しいという。有岡城が史上初の“総構え”だったゆえんであろう。
 筆者は以上のような経緯をつぶさに見守ってきたのであるが、その成り行きは誠にドラマチックであり、感動的であった。もし、鈴木充先生の「“総構え”の城」とのご指摘が得られず、また発掘調査で石垣や庭園の遺構が発見されなかったら、高台をなす有岡城の城跡はブルドーザーで根こそぎ削り取られ、何の変哲もない駅前広場に姿を変えていただろう。
 それが一転して保存が決まったばかりか、昭和五十四年(一九七九)、市・県の指定を飛び越えた“二階級特進”で、有岡城跡は「国指定史跡」に輝いたのだ。こうして、かけがえのない歴史遺産が破壊から守られたことは、特筆さるべき快挙だったといえよう。

五、歩道橋出現(平成時代)
 伊丹の有岡城跡は紆余曲折のすえ、奇しくも落城(一五七九)から満四百年目の年(一九七九)に「国史跡」に指定されたのであるが、それからまた四半世紀もの歳月が流れた。
 現在、本丸跡の丘陵は緑に彩られた史跡公園として整備され、内堀の一部も復元されている。高台の上にそびえるカリヨンの前から伊丹駅の二階コンコースへ通じる陸橋は、「古城橋」と名づけられた。国鉄は昭和六十二年(一九八七)からJRとなり、伊丹駅も城郭をイメージした新しい駅舎に生まれ変わっている。
 それと、発掘調査で見つかった古い石垣が健在なのは、うれしい限りだ。しかし、庭園跡が出土した場所は半分ほどが埋め戻され、残りの半分は掘り下げられてタクシー乗り場となった。それらの西側には、演劇専用のアイホール、そして再開発ビルのアリオが二棟。城跡や駅舎の周りには高層マンションが林立しており、その変貌ぶりは目をみはるばかりである。
 そうして、21世紀に入った平成十四年(二〇〇二)の十月、有岡城本丸跡の中央部に、巨大な歩道橋が出現した。その橋はJRのプラットホームをまたぎ、駅舎二階と大型商業施設とを結ぶ。JR伊丹駅は城の跡地に建っているのだから、巨大な歩道橋はかつての本丸の上を東西にひとまたぎしているわけだ。
 時勢の赴くところだから、やむを得ないのだが、城主であった荒木村重は草葉の陰で苦笑していることだろう。
 なお、JR伊丹駅北東の東洋ゴム伊丹工場跡(藤ノ木一丁目)にオープンしたのは、ご存じダイヤモンドシティ。地上五階・地下一階、売場面積五二、〇〇〇m2を誇るショッピングセンターで、関西では最大規模だといわれる。その陰に隠れてしまって、崖の上の本丸土塁に登っても、もう猪名川は見えない。
(伊丹市文化財保存協会理事)

伊丹市周辺地域の石造文化財
福澤 邦夫

はじめに
 猪名川と武庫川流域の中央に立地する伊丹市は、南に尼崎市・北に宝塚市・東に川西市と境を接し、西は武庫川を越えて西宮市に隣接する。
 いずれも古くは西摂と呼ばれた地域である。
 つぎに紹介する石造文化財の諸様相も、この両河川下流域の平野部には、重層塔をはじめ各種の塔婆が多く遺存するが、完存するものはいたって少ない。
 それは室町時代とりわけ中・後期に亘る戦乱による影響が極めて大きいといえよう。
 一ぽう川西市・宝塚市域の山間部には、宝篋印塔をはじめ完存する遺品が多く残り、石造文化財としての価値を一層高めている。
 次項からは、各市を代表する遺品を紹介し、それらから何が読みとれるか見ていきたい。

西宮市の石造品
観音堂 伝武田信玄七重塔 鷲林寺町
 花崗岩製。観音堂え登る途中から右へ入ると墓地があり、その西南部に建っている。相輪を欠失し、現高二五四cmである。基礎は四面とも素面で、塔身は金剛界四仏の種子(東・阿閃「ウーン」南・宝生「タラーク」西・弥陀「キリーク」北・不空成就「アク」)を大きく薬研彫りで現す。正安頃(一二九〇)の造立であろう。
 この武田家滅亡に纏わる伝承に、尼崎市東園田一丁目に武田勝頼の子勝親の塞がある。

浄橋寺 石造露盤 塩瀬町生瀬
 花崗岩製。宝珠を欠失し、高さ二三cm、幅五一・五cmで、側面を二区に分け格狭間をいれる。
 露盤は宝形造りの屋上に据え宝珠を受けて屋蓋を飾る施設であり、石造は極めて珍しい。元応頃(一三二〇)の遺品かとされる。
 同所には、観応頃(一三五〇)とされる五輪塔基礎に地蔵坐像を彫出した遺品。応永十六年(一四〇九)在銘長基五輪塔に弥陀坐像を刻出したものが遺存する。重要文化財・寛元二年(一二四四)梵鐘をはじめ見るべき文化財が多い。

極楽寺 石造厨子 瓦林町
 花崗岩製。高さ四九・五cm、幅五二・六cm、厚さ一二cmで、左右に輪郭を取り、うちに舟形光背を現し、その下端に蓮華座を大きく刻み、上に定印の阿弥陀坐像を陽刻し、その下方に俗形の男女坐像を刻出する。この男女像は弥陀の浄土に安住を願い建てた夫婦像であろう。
 本例は、後出する宝塚市上西の石造厨子から、厨子の奥壁ではないかと推考した。元応頃(一三二〇)の造建であろう。

海清寺 開山無困宗因無縫塔 六湛寺町
 花崗岩製。八角三重の基壇上に建ち、塔身と中台の間の請花座を欠失し、現高六二cmを計る。
 師は、応永十七年(一四一〇)に八五歳で死去したが、塔の構造様式は没後間もない頃の造立としてよいとされ、応永頃(一四一〇)の無縫塔の標式として、貴重な遺品といえよう。
 当市には、外に上鳴尾共同墓地に、五輪卒塔婆板碑に弥陀坐像・地蔵坐像を彫出するもの他があり、市域には、密教と浄土教が混交した真言念仏の信仰に基ずく遺品が多いが、そこには弥陀・地蔵に救いを求めた庶民の願いが強く感じられる。

尼崎市の石造品
須佐男神社 十三重塔 武庫元町
 花山岡岩製。相輪後補のほかはよく揃っており、県の重要文化財としての指定もうけた貴重な遺品であったが、先年の震災で倒れ、復旧の途中で塔身が盗難にあい失なわれた。
 現高四一〇cmで、東に弥陀・南に釈迦・西に地蔵各坐像を配し。北面に銘文を刻む。
 「右造立供養之/意趣者為二親/菩提法界衆生/平等利益也/元応二年八月十九/神主三室藤□/敬白」とある。(一三二〇)
 西方に固定される弥陀が東に位置し、西に地蔵を配するのは、建立者の地蔵菩薩に対する篤い信仰が窺われる。東の阿弥陀如来を拝するには、西方を向く古い形態を残す塔婆といえよう。
 惜しくも塔身を失なっているが、ありし日の雄姿を偲ぶためにあえて掲げたしだいである。

須佐男神社 十三重塔 守部
 花崗岩製。相輪まで揃っているが、六層目以上は後補で、現誠二二〇二・三cmである。
 基礎は四面とも素面で、塔身は線刻月輪内に金剛界四仏の種子を配している。屋蓋は軒裏に一重垂木形を刻出する丁寧な造りである。
 塔身、屋蓋の手法から鎌倉後期の正和頃(一三一五)の造立とされる。

如来院 笠塔婆 寺町
 花崗岩製。屋蓋を亡失するほか塔身上部を破損する。現高一八四・八cmである。
 基礎は、上端を繰形座とし、側面は二区に分け輪郭を巻き、三面は格狭間を入れがる、正面は相対向する孔雀文を刻出する。
 塔身は方柱状で、正面上方の輪郭内に円光背を負い、蓮華座上に棒珠持錫の地蔵立像を肉厚に彫出し、その下の空間に造立趣旨の銘文を陰刻する。更にその下の輪郭内に造立者夫妻の像容を刻出し、その下を二区に分け格狭間を現す。
 銘文「右志者迎二親三十/三ケ年之遠忌所奉/訪彼菩提也乃至法界/平等利益/嘉暦二年卯丁七月十二日孝子比丘尼妙阿沙弥□□□」
 他の三面は、各面輪郭を巻き下端に蓮華座を薄肉彫りし、書体を異にした六字名号を配している。(一三二七)
 本塔は、基礎に県下唯一の孔雀文を飾るほか、塔身正面の優れた像容、銘文、名号を書体をかえて彫出するなど、心配りの行き届いた手法は、他に例に乏しく、ひとり尼崎に止まらず県下を代表する遺品といえよう。

 本興寺 開山日隆上人墓題目笠塔婆 寺町
 花崗岩製。完全、総高一二三・七cmで、返花式基礎は、三面輪郭付き格狭間入りで、背面は素面である。
 塔身は、各面輪郭を彫り込み、下方に蓮華座を薄肉彫りし、蓮華座上に銘文を陰刻する。
  本門南無妙法蓮華経      (右側面)
  南無妙法蓮華経 日隆上人   (正面)
  本門南無妙法蓮華経      (左側面)
  寛正五年二月 日(一四六四) (背面)
 屋蓋と請花・宝珠は珍しく一石で彫成され、とくに宝珠は丁重な高台付である。
 当寺には、他に中世の在銘題目笠塔婆七基が所在し、それには次の紀年銘がある。
 康正三年(一四五七)・寛正六年(一四六五)・延徳三年(一四九一)・天正二年(一五七四)・天正七年(一五七九)・天正八年(一五八〇)・慶長十四年(一六〇九)

同所 無銘題目笠塔婆
 花崗岩製。完全、総高一五〇・七cm。基礎は返花式で、側面は各面輪郭付き格狭間入りで、三面に線刻の開花蓮を飾っている。
 塔身は方柱状で、四面とも輪郭を巻き下方の蓮華座上に題目を配している。
 屋蓋は一重垂木形を造り出し、方形造りの稜線には降り棟を刻出し、露盤には輪郭を巻き格狭間を入れる。屋根中央に十一の文字を陰刻するが意味は不明である。請花と宝珠は一石で、請花には小花入り単弁八葉の蓮弁を刻み、宝珠は高台を造り付けるなど、塔全体が丁重に造られる。三十数基ある一群のなかでは最古最大で、宝徳頃(一四五〇)の遺品とされる。
 ちなみに、市内の題目笠塔婆の在銘最古は、震災後見出された、長遠寺の塔身のみの残存であるが、文安二年(一四四五)である。
 なお、本興寺には、他に応永二三年題目板碑ほか見るべき遺品が多い。

常春寺 宝篋印塔 水堂町一丁目
 花崗岩製。宝珠を欠失しているので、基壇を加え現前二四八・八cmを計る。基壇は二石を合わせ返花式になり、基礎も上端を返花式とし、側面は四面とも輪郭を巻き格狭間を入れるが、正面のみ宝瓶三茎蓮を飾る。
 塔身は蓮華壇上の月輪内に、金剛界四仏の種子を配している。屋蓋は下二段、上六段で、隅飾りは二弧輪郭付きで内に月輪を薄肉彫りし、胎蔵大口の種子「ア」を配している。
 室町初期の貞治頃(二三六五)の造建とされる。市内唯一完存に近い塔である。

尾浜八幡神社 伝名月姫宝篋印塔 尾浜
 花崗岩製。塔身・相輪を欠失しているが、基壇は返花式で、基礎は壇上積式になり二重輪郭内に格狭間を刻出する。屋蓋は下二段上七段で、隅飾りは一弧素面の古式で、鎌倉後期の延慶頃(一二二〇)とされる注目すべき遺品である。

東光寺 弥陀像容板碑 今北
 花崗岩製。完全で、総高一三六cm。先端を山形に切り、二段の切り込みを入れ、額部を造り、以下の身部上半に舟形光背を彫りくぼめ、蓮華座上に定印の弥陀坐像を彫出する。碑伝形板碑の構造形式になり、像容も優れ、鎌倉後期の正和頃(一三一五)の造立か、市内最古の板碑。

同所 地蔵立像板碑
 花崗岩製。完全で、総高一一八cm。構造形式は弥陀板碑と同じで、舟形光背内の蓮華座上に、奉珠持錫の地蔵立像を刻出する。室町初期の延文頃(一三六〇)の造立であらう。

七松共同墓地 題目板碑 七松町
 花崗岩製。完全、総高一一四cmで、先端を山形に切り、一段の切り込みと額部を造り、以下の身部に翰郭を彫り沈め、蓮華座上に題目を配し、つぎの銘文を刻む。
 「応永四年/ロロ霊/卯月八日」(一三九七)とあり、応と霊は異体文字で現す。
 本塔は久遠寺、神戸市兵庫区所在の嘉暦三年題目板碑につぐ古さで、尼崎に法華宗が伝播した確かな年代を知る貴重な遺品である。
 当所には他に、永享十一年題目板碑・天文十三年双頭題目板碑が所在する。

西教寺跡 六地蔵石祠 三反田
 花崗岩製。基礎と屋蓋を欠失する。石祠は高さ四八・八cm、幅七一cm、背面は不整形であるが、厚さ最大二三・二cmを計る。
 正面に二重の輪郭を彫り込み、その内部いっぱいに、蓮華座上の地蔵立像六体を並べて肉厚に刻出する。尊容は磨滅が大きく定かでない。左右の輪郭上に各一行の銘文があるが、左側の文和二年(一三五一三)の紀年銘がからうじて判読されるにとどまる。
 外の輪郭の内側四隅に小円孔を穿っているが、両開きの扉を嵌めるための軸孔であり、輪郭の形状からは、木製扉が想定される。その保護のためにも、基礎上に建て屋蓋を乗せたと推定され、そのことから、あえて石祠と推考した。

川西市の石造美術
満願寺 九重塔(重要文化財) 満願寺
 花崗岩製。相輪の上の請花・宝珠を欠失しているので、現高三五三cmである。基礎は四面とも素面とし、塔身は月輪を造らず、直接四仏の種子を、大きく鋭い薬研彫りで配している。
 四仏は異様で、東バイ(薬師)南アーン(胎蔵大日)西キリーク(弥陀)北ウーン(阿?)で、この様な配置は例に乏しい。
 銘文は北面ウーンの左右に陰刻する。
 「為二親得脱比/丘尼妙阿造立之/正応六年三月日」(一二九三)
 屋蓋は軒裏に一重の垂木形を造り出す。
 東の薬師と西の弥陀は顕教系であり、南・北の大日と阿?は密教の如来で、顕密混淆した塔婆である。二親の得脱(解脱を得ること。一切の煩悩生死の束縛を脱し、菩提涅槃の妙果を證得して自由安穏なること)速やかなる解脱を大日に託し、弥陀の西方浄土に再生を願い、自身の安穏を薬師に思いを寄せたのかも知れない。
 更に本塔の資料価値を高めているのは、永代供養料としての、仏餉田を寄進した寄進状写しが寺に伝蔵され、それに基ずいて法華塔碑が建立され、塔建立の経緯が分かることであろう。
 他に、当寺には五輪塔に見るべき遺品がある。

小童寺の石塔群 西畦野
 本堂の背後は墓地で、その北端の石柵内に並び建つ三基の宝篋印塔のうち、右から伝美女丸塔、幸寿丸塔、伝藤原仲光塔と伝えている。
 伝美女丸塔。花崗岩製で、返花式一重基壇上に建つ。相輪が上の請花と宝珠を欠失しているので、基壇を含めた現高九七・八cmである。
 基礎は返花式で、各面輪郭付き格狭間入りとし、塔身は輪郭を巻き月輪を薄肉彫りし、金剛界四仏の種子を配している。屋蓋は下二段、上六段で、隅飾りは二弧輪郭付きとし、内に蕨手文を刻む。
 塔身に輪郭を巻き、月輪を薄肉彫りし、隅飾りに蕨手文を刻出する手法は、猪名川流域における一地方色とみられている。
 塔は、室町前期永事項(一四四〇) とされる。 藤原仲光塔は応永末年頃(一四三〇)幸寿丸塔は江戸時代に入ってからの造立であろう。
 伝四天王墓宝篋印塔は宝徳頃(一四五〇)無縫塔と十三仏板碑と並び建つ宝篋印塔は、天文中頃(一五四〇)と推定されている。

同所 重制無縫塔
 花崗岩製。完全で、総高八四・九cmを計る。八角の基礎は返花式で、各側面は輪郭内に格狭間をいれる。竿は八角柱状で、一面おきに開花蓮を薄肉彫りする。中台は下方を線形に造り、側面は線刻で二区に分ける、上面は素弁十六葉を廻らす。請花は小花入り単弁八葉を刻出する。塔身の卵頭の形状も古様で、応永頃(一四一〇)とされる。重制無縫塔の遺例はいたって少なく、保存もよく貴重な文化財と言えよう。

同所 十三仏板碑
 花崗岩製。完全、全体を舟底形に造り、自然石の台石上に建っている。
 総高八四・二cm、上方に天蓋を線刻し、以下の全面にわたり、各蓮華座上に線刻の頭光を負う、各尊十三体の坐像を半肉彫りで配している。
 十三仏とは、死後の十三回に亘る法要の主尊として、信仰されている仏菩薩である。
 初七日不動・二七日釈迦・三七日文殊・四七日普賢・五七日地蔵・六七日弥勒・七七日(中院)薬師・百力日観音・一年勢至・三年弥陀・七年阿?・十三年大日・三三年虚空蔵である。
 本格的な十三仏板碑で、尊容も優れている。
 天正頃(一五七五)の造立とされいる。

徳林寺 宝篋印塔 黒川
 本堂左の墓地に所在する。花崗岩製。相輪後補で、繰形式基壇上にたっている。基壇を含めた現高六七・二cm、基礎は返花式で、側面は輪郭付き格狭間入りとする。塔身は月輪内に四方とも不空成就の種子「アク」を雄勁に薬研彫りされる。銘文を種子の左右と月輪の下に、右書きで横一行計二一字を陰刻する。
 「為父母之願主直/家造立敬白/文和二二秀十月廿日」(一三五五)秀は年の異体文字。
 屋蓋は下二段上六段で、隅飾りは大きく二弧輪郭付で、内に月輪を薄肉彫りする。
 塔身の不空成就如来は、密教では釈迦如来と同体とされる。四面に一尊のみを現すのはきわめて珍しい。
 近くの慶昌寺には塔身だけの残存であるが、月輪を彫沈め四面に「アク」を配し、一面につぎの銘文を陰刻する。「為父母聖霊願主沙弥□□/永和二年七月八日造立敬□」(一三七六)
 更に隣接する大阪府能勢町の野間中共同墓地に、徳林寺と形式を同じくし、同年で、同じ石工の作になると考えられる塔身が残存する。
 銘文は「為父母沙弥教阿/文和二二秀二月」
 教阿は直家の法名であろう。この周辺地域に一時期釈迦信仰があったことが推察されよう。

宝塚市の石造美術
普明寺の石造品 波豆
 本寺には、笠塔婆二基内一基に正平十九年(一三六四)・応永二年宝篋印塔(一三九五)・開山宝篋印塔・宝塔・石造水盤が所在する。
 笠塔婆 参道を右に入った基地にあり、二基並び建つ内の左塔で、石英粗面岩製(以下波豆の石造品は全て石英粗面岩製)完全、総高一三六・七cm。やや不整形な板石状の塔身と屋蓋よりなり、下端を地中に埋めて建つ。正面上方に月輪を造らず、直接弥陀三尊種子(弥陀「キリーク」観音「サ」勢至「サク」)を配し、以下の中央に銘文を陰刻する。
 「正平十九甲辰三月六日孝子ホ敬白」
 塔は、亡父母のために建立された供養塔である。周辺地域が全て北朝の勢力圏であるのに、本塔が南朝の年号を使用していることは、地方史の研究上貴重な注目すべき遺品である。
 笠塔婆(右塔)屋蓋の断片が残り、笠塔婆と確かめられた。塔身高さ一三五cm、形状は左塔と同じで、上方に二尊の種子金剛界大日「バン」阿?「ウーン」を薬研彫りで現す。無銘であるが左塔と同年代とされる。

応永二年宝篋印塔
 墓地の中央に三重基壇上に建っている。完全。塔の総高一六五・七cm、三重目基壇は返花式になり、基礎も返花式で、側・背面は輪郭を巻き格狭間入りとするが、正面は額縁状の輪郭を造り、うちに大きく開花蓮を飾る。左右の輪郭上に左から「応永二年 四月廿八日」と陰刻する。紀年銘の配置が通常とは逆になつている。
 塔身には、蓮華座上月輪に金剛界四仏種子を刻出する。屋蓋は下二段、上六段で、隅飾りは 二弧輪郭付きとしている。

伝開山満照墓宝篋印塔
 本堂の西北の石柵を廻した土壇の中央に建っている。完全で、総高九九・九cm、返花式基礎は各面輪郭付格狭間入りで、正面だけに宝瓶三茎蓮を彫出する。
 塔身は珍しく素面で、屋蓋は下二段上六段の定型式、相輪の伏鉢に素弁八葉を刻出する。宝徳頃(一四五〇)の造立であろう。
 宝塔 塔身と屋蓋だけ残存している。現高三三・二cm。塔身正面に扉形を薄肉彫りし、その内部を彫り窪め、蓮華座上の月輪に金剛界大日の種子「バン」を刻む。屋蓋は垂木形を造り、屋根には露盤と四隅に隆棟を造り付ける。
 この様な徹底した小形塔は、類例に乏しく、彫法も優れ貴重な遺品である。永享頃(一四四〇)の建立とされる。

波豆八幡神社の石造品
 金胎大日弥陀種子板碑(一三二八)五輪塔(一三四三)無銘宝篋印塔(一三六五頃)宝篋印塔(一三九一)石鳥居(一四二五)笠塔婆(一五〇〇頃)ここの遺品は全て「県文化財」指定

金胎大日弥陀種子板碑
 他の塔婆とも、神社西方の鉄柵を廻らした小墓地に所在いする。完全。地上の高さ四〇〇cm、地上の幅八二cm、厚さ二四・五cmで、尖った先端が前方へ突出した、自然石状板碑である。上方に三尊種子を雄大に薬研彫りする。金剛界大日の「バン」五点具足の胎歳大日の「アーンク」荘厳体の弥陀の「キリーク」を二段に配し、以下の面に三行にわたり、つぎの銘文を陰刻する。
 「為二親法界衆生/嘉暦三年戌辰初秋上旬/願主妙信合力衆ホ」密教と浄土教が混淆習合した、真言念仏の信仰に基ずく造立であろう。
 本板碑は、全国板碑のうち第二位の大きさで、宝塚市が全国に誇るにたる文化財である。
 五輪塔 返花式二重基壇上に建っている。完全で、総高一五五・五cm。各輪に梵字を刻まず全て素面である。形姿の優れた遺品ではある。基礎につぎの銘文を陰刻する。
 「四十余人念仏衆/康永二癸未三月日敬白」
念仏講衆が極楽往生を願い建立した塔婆である。
 無銘宝篋印塔 完全で、総高一五四・八cm。基礎は返花式で側面は輪郭付格狭間入り、正面に開花蓮を刻出する。塔身は線刻蓮華座上月輪内に金剛界四仏種子を配している。
 屋蓋は下二段上六段で、隅飾りは二弧輪郭付きで月輪を造り、うちに八天の種子を刻出するのは極めて珍しい。室町初期貞治頃の遺品。
 宝篋印塔 二重基壇上に建つ、相輪の宝珠を欠失するので、現高一四八・二cm。基礎は返花式、側面は輪郭付格狭間入りで、正面に宝瓶三茎蓮を刻出する。その二茎は左右に延び、格狭間に食い込むのは、他に例に乏しく珍しい。
 この面左右の輪郭上に次の銘文を陰刻する。
 「道修一結衆ホ/明徳二辛未三月日」
 塔身は線刻蓮華座上の月輪内に金剛界四仏種子を配している。屋蓋は下二段上六段で、隅飾りは二弧輪郭付き。「ホ」は「等」の異体文字

石鳥居
 完全。中央で総高約三七〇cm、笠木の長さ五九〇cm、左右の円柱は高さ三五〇cm、径三九cm、柱間は下端で二九〇cmを計る。
 銘文は額束の中央に大きく縦に陰刻している。
 「応永卅二乙巳四月四日」
 石鳥居の在銘品は少なく、県下では六基が知られているが、三田市藍本の酒垂神社の応永二年(一三九五)につぐ古さで、同系の石工の製作かとされている。

 石造地蔵 波豆新大橋畔
 波豆の西端、羽東川に架かってる新大橋の東北側の斜面の裾に、西面し板石で囲った中に祀られている。板石を将棋の駒形に切り、輪郭を廻らした中に、蓮華座上に棒珠持錫の優れた地蔵坐像を厚肉で刻出している。輪郭上に地蔵種子「カ」と銘文を陰刻している。
 「願主長清敬白/応永廿四年丁酉十一月廿四日」
 この波豆は、周辺に各種の優れた石造品が、多く遺存する稀有な地域といえよう。

石造厨子 西谷字上西
 石英粗面岩製。完全、高さ八〇・四cm。台石上に壁石三枚を立て、上に屋蓋を乗せた厨子形に造られる。奥壁正面上方の蓮華座上に定印の弥陀坐像を、その下方左右に分けて、合掌する俗形坐像二体を薄肉彫りする。弥陀像の左右に(右)桂妙(左)覺円と陰刻する。造立者の二親であろう。  その建立は嘉暦頃(一三二六)とされるが、全体の形姿と像容の優れた遺品である。

善光寺 宝篋印塔 長谷
 石英粗面岩製。相輪の宝珠が欠失し、現高一三六・四cm、基礎は返花式で、側面は輸郭付格狭間入り、正面の左右輪郭上に紀年名を刻む。
 「観応元庚寅/十一月廿七」(一三五〇)
 塔身は月輪を彫沈め金剛界四仏の種子を配し、内にすり鉢状の奉籠穴を穿っている。
 屋蓋は下二段上七段に造るのは珍しい。相輪の伏鉢と上下の請花に、小花入素弁六葉を刻むが、八葉が普遍的であり六葉は極めて少ない。
 伏鉢に蓮弁を刻出する例も少なく、西谷地区の一地方色といえよう。この周辺には宝篋印塔が多く遺存する。宝塚市域最古の在銘宝篋印塔。

平林寺 石造露盤 小林
 花崗岩製。宝珠を欠失し高さ二六・〇cm、幅八一・三cmである。側面は三区に分け輪郭を巻き格狭間を入れる。
 石造露盤には、層塔用と宝形造りなど堂宇用の二種があり、僅少例が知られている。本例は堂宇用で、本寺薬師堂は宝形造りで露盤は瓦製を上げているが、旧所用品ではないかとされる。
 文永頃(一二七〇)の遺品であろう。

万年坂 地蔵磨崖仏
 満願寺に行く道筋でもある、花屋敷つつじガ丘の通称万年坂にあり、花崗岩の自然石の表面下方に蓮華座を線刻し、その上に二重光背形を彫り沈め、内に捧珠持錫の地蔵立像を彫出する。
 仏高九一・五cm、宝珠は珍しく薬壷に造り、錫杖に五輪塔形を刻出し、額に白毫を造る。彫法の優れた像容である。
 正和頃(一三一五)の遺品かとされる。

「引用文献」
 『西宮市史』第七卷「金石文資料調査記録」
 『尼崎市史』第十巻「尼崎の石造美術」
 『地域史研究』第二九卷第一号「尼崎中世石造美術の現況」
 『川西市史』第七卷「川西の中世石造美術」
 『宝塚市の中世石造美術』宝塚市文化財調査報告第四集
 『宝塚市史』第七巻「石造美術編」

岡田柿衞没後ニ十年をむかえて
(財)柿衞文庫学芸員 岡田 麗

 柿衞文庫の創始者岡田利兵衛−号の柿衞は頼山陽ら文人達が愛でた柿をまもるという意味−は、明治二十五年八月二十七日、伊丹町伊丹一九四番地−現在の「みやの前文化の郷」−に生まれ、昭和五十七年六月五日、満八十九歳でこの地に没した。没後二十年に当たる本年四月十二日から五月二十五日にかけて、柿衞文庫では「没後二十年 岡田柿衞展 俳諧・洋鳥・写真‥」を開催し、その業績を顕彰した。
 ここでは、この展覧会に触れつつ、岡田利兵衛の多彩な生涯の一端を紹介したい。
【出生】岡田利兵衛は岡田正造とたかの長男として、江戸時代から続く伊丹の酒造家に出生した。幼名を真三という。真三には、父正造と先妻古登の長女である姉はるがおり、真三を産んで三ケ月で実母たかは亡くなったため、父正造は安本たみと再婚したので、のち弟正次と龍男が生まれている。 【学生時代】岡田は、伊丹尋常高等小学校・兵庫県立伊丹中学校・第三高等学校文科乙類を経て京都帝国大学文学部国文科を卒業した。
 幼い頃身体が弱かった岡田は、通常より一年遅れて小学校に入学。高等学校二年在学中にも胃腸を病んで休学している。だが一方で中学校時代は庭球部の選手でもあった。学業成績は学生時代を通じて優秀で、小学校二・三年の時には級長をつとめ、中学校の成績は概ね二位か三位であった。
 中学校時代の日誌に目を通すと、毎日欠かさず日付・曜日・天候とともに起床・就床・登校・帰宅時間、そして修学・訪問・自省・運動・余録等の各項目が克明に、時には挿絵を交えて記載され、岡田の几帳面な性格を物語っている。また高等学校時代の日記には、七福座−伊丹の豆芝居−観劇や大阪大相撲見学の詳細な記述が見え、晩年までおよぶ趣味の萌芽が窺える。ことに「歌舞伎」と題するノートには、観劇年月日・観劇場所・演目名・役者名を勘亭流で記すとともに、批評家はだしの劇評を書き込み、役者の動きをスケッチで挿入するなど、興味をもった対象へ没入する姿勢が見うけられる。
 さて、岡田の卒業論文は「狂言の研究」である。岡田は、狂言が謡曲に対して現実的かつ俗語を以て庶民を投影していることに注日し、狂言が滑稽的国民性と言語と風俗の三者をあらわしている点に研究の価値を認め、この卒論を執筆している。のちに岡田の生涯の研究テーマとなった俳諧と狂言とは「庶民・滑稽・俗語」など共通項が多い。商家に生まれ、常にユーモアを忘れなかった岡田は、彼にふさわしいテーマを卒論に選んだといえよう。
【結婚】岡田は二十六歳の時、義母たみの勧めにより、京都で醤油醸造業を営む安本源之助(たみの実兄)ととくの長女照子と結婚した。九歳年下の照子とは岡田が第三高等学校在学中からの許婚であったので、岡田が照子にあてた照子の小学校卒業を祝う葉書なども残っている。結婚式は、照子の京都府立第二小向等女学校卒業を待ってすぐに挙行された。照子は輿入れの際に、岡田から贈られた百通に余る恋文を家紋入りの黒塗りの箱に納めて大切にもってきており、その中には岡田の照子への一途な思いが込められている。(蟋蟀のなかぬ夜ながら月見ればいつも都の君を思ひつ 真三)
【酒造業】結婚後一卜月ほど経った大正八年一月父親を失い、岡田は其三改め利兵衛を襲名、第二十二代岡田家当主となつて家業を継いだ。
 岡田家は当初酒米問屋であったが享保二年からは酒造業をはじめ、十九代の糠人の時代からは今津でも開業した。岡田の父正造在世当時の営業地は伊丹泉町、醸造場は植松・戎町と今津の三蔵であったが、明治四十年には米屋町の酒蔵を買増し、伊丹三三三の土地も買求めて家業を興した。重要文化財に指定された「旧岡田家酒蔵」はこの時に取得されたものである。なお「旧岡田家住宅」は酒造場と蔵人の宿泊所ならびに事務所として使用されていたもので、岡田家当主は享保十一年に岡田酒人によって取得された屋敷に代々住んだ。屋号は「鹿島屋」、江戸期の銘柄は一陽・八重・清竹・東雲・飛竜である。明治・大正期の銘柄「富貴長」は、昭和十八年の企業整備で合併後「大手柄」となつた。
 ところで、岡田が「柿衞」号を初めて使ったのは、大正十年五月に執筆した「江戸文学卜伊丹」と題する原稿である。この内容は、江戸時代における伊丹と酒に関わる書物、ならびに酒によって隆盛をみた伊丹の文化−主として俳諧−に関するものである。「柿衞」号の名のりの時期を考える時、「柿衞」の号は家業の酒造業への出発とともに、伊丹に根付いた俳譜への道を志すという意志表明であったと思われる。
 岡田は昭和八年十月伊丹酒造組合長、同二十年六月伊丹酒類興業社長を歴任し、没するまで伊丹の酒造業の発展に尽力した。
【洋鳥趣味】江戸時代の伊丹の旦那衆は財力に任せて、俳諧・茶道・華道等々あらゆる風流事を楽しんだ。岡田もまた広く深く趣味に遊んだ、いわば最後の伊丹酒造家の旦那衆であった。たとえば、写真では「伊丹鬱蒼会」を結成するとともに浪速写真倶楽部に所属し、昭和六年には猿の表情を撮影した「怒り」で文部大臣賞を受賞。また相撲は伊勢浜部屋を贔屓にして力士を自宅へ招き、本場所を観戦。山草をロックガーデンで育て、牧野富太郎博士と親交を深め、また茶室「鹿心園」−鹿心は柿の実を意味する−で久田宗也宗匠に稽古をしてもらう等々。
 この中から特に洋鳥趣味をとりあげ、岡田が「道楽」と称した趣味のスケールの大きさと水準の高さを示してみたい。
 父が没した翌大正九年頃から昭和十年頃にかけて、岡田は洋鳥の飼養・研究に熱中した。「岡田洋鳥研究所胡錦園」と称する千坪近い自庭に設けた禽舎には、金腹科と雉子類を中心に世界各地から洋鳥が集められた。
 この洋鳥趣味は、英国の貴族趣味が東京の華族に伝わって流行したといわれ、日本では大正九年に山階芳麿氏・鷹司信輔氏・黒田長禮氏・柳澤保承氏・高野鷹蔵氏らが「鳥の会」を創設。岡田も創立に参加し、飼鳥展覧会の審査員や講演会の講師として活発な活動を展開した。
 岡田は「胡錦園」を毎年五月に一般に公開し、伊丹小学校・伊丹中学校・伊丹高等女学校をはじめ県内外の学生や教諭、また各地の愛鳥会の方が来園した。岡田の記録ノートによると、二日間で二万人が集まり、酒造蔵では農林省から借りた活動写真を映しオーケストラも演奏したというから、かなり大規模の公開であり啓発活動であったと推察される。
 岡田は、神戸の動物商や神戸港へ着く外国船の船員から洋鳥を購入するのが常であったが、ある時非常に手に入れたい鳩を積んできた外国船があって、その旨を告げると、船員が「象と一緒に買ってくれるなら売ってもいい」と言われ、象もろとも買い入れたという話が伝わっている。岡田は欲しい洋鳥には平気で千円の値をつけたといわれるし、大正十二年のノートによれば、「帝雀(一番)三百円で購入」などとあり、当時は三百円で高級官僚が一年暮らせたというから、岡田利兵衛の子供達が一様に覚えているこのひとつ話も、どうやら事実らしい。
 岡田は生きた洋鳥を楽しむだけではなく、研究した。岡田が残したノートには、何年何月何日に、何という船が、何処の国から、どういう洋鳥を、いくらで運んできたか、そしてその鳥がいつどのようにして落鳥したかなどが詳細に記述される。他方で、洋鳥の種別ごとの産卵表や育雛経過の克明な記録も見うけられる。これらを基にして、岡田は「かひどり」−「鳥の会」の機関誌−をはじめとする飼鳥関連の雑誌に「紫紺鳥の色彩とその階調の研究その他」ほか多くの研究を発表し、「小鳥の話」「小鳥」など現在でも十分役立つ著書を著した。
 そして昭和二年には、この洋鳥趣味の実績が世界的に認められ、フランスの馴化協会鳥類部から賞牌を受けた。また同五年には胡錦園の中から瑠璃鳳凰の新種が発見され、発見者の名を付しProsteganura haagneri okadai と命名された。岡田が愛した洋鳥たち、「薄雪鳩」「小町雀」「常盤雀」などと和名をつけて愛しんだ色鮮やかな洋鳥たちは、今は標本となって保存されている。
【俳諧資料収集】岡田が精魂を傾けた洋鳥趣味に転機をもたらしたのは第二次世界大戦であった。戦争が始まり、洋鳥の係りを任せていた男衆たちは徴用にとられ、飼料の途絶にもあって、岡田は洋鳥の飼養を中断しなければならなくなった。昭和十八年のことであった。そして洋鳥とほぼ入れ替わる形で収集の対象となったのが俳諧資料である。そのきっかけは昭和十二年岡田が伊丹町長をしていた時、町長室を訪れた俳人から求めた鬼貫の短冊。岡田の先祖酒人は俳諧を嗜み、鬼貫の友人でもあったので、岡田家には鬼貫が酒人にあてた書簡や懐紙などが伝襲した。岡田にとって懐かしく親近感を覚えたであろう鬼貫。郷土の俳人鬼貫の短冊との出会いが、岡田の俳諧資料収集の原点であった。
 岡田は「私の収集態度は研究のために必要な資料を求めるという一筋を貫いたつもりである」と述べ、自筆のものを資料として取り上げるための真贋の見極め、筆蹟類の検討を重視した。
 俳諧関連の資料を収集する都度岡田が記録を書き付けたノートは、昭和十八年一月から同四十八年九月までの全二十二冊にのぼる。このノートには、何年何月何日に、誰から、どういう資料を、いくらで購入したか、その資料を入手したいきさつ、資料の価値などが丹念に記述されており、洋鳥のノートと記入方法が大変似ている。酒造家の財力に任せて実物を手に入れ、分類し、分析し、研究するという科学的手法。これを読むと、研究者であった岡田の収集態度が実によくわかる。
 そしてまず気づくことは、鬼貫や伊丹俳人の直筆さらに伊丹関連俳書に対する岡田の思い入れの深さである。たとえばこれらを収集し得た時には、その資料名に赤で三重丸や二重丸が必ずつけてあり、次のような心の発露が見られる。「…多年渇望の品。…リラララ大悦す。」(「にょっぽりと」句一行物など四点)「…本文庫に家蔵することが出来たのは仕合せである。永久愛蔵本。」(『鉢扣』)「余この書を求むる事久し。遂に得たり。まことに長寿の一得といふ可きか。伊丹俳書は正統の後継者がなかった為か…蕉風は殆んど出盡し、西鶴関係もボツボツ出現してよろこばして居るが、終戦後の博捜にかゝわらず片鱗だも見せなかった。」(『かやうに候ものは青人猿風鬼貫にて候』)「これを博捜する事すでに三十年…入手した。まことに鬼貫霊のみちびきによるか。」(『犬居士』)「…小生眼の黒いうちはとても発見しないと思ったのが、かくして人手できた。神のみ恵みを心から感謝している。」(『三人蛸』)。岡田は『伊丹風俳諧全集』の中で「郷土先賢の遺風を顕彰する事、それは年来の宿願であった。次第にそれが私の責務とさへ感ずる様になって来た」と述べている。
 岡田は、こんなエピソードを時折語った。昭和二十年八月、大阪の空襲で住まいが焼失した水落家から連絡があり、羅災を免れた土蔵に残った蕪村関連の俳書や短冊等を岡田が譲り受けた。その際、小西来山の屏風を運んでもらう為に人を募ったところ、一人の人物が「清酒一本貰えるならば」と、まだ敵機が飛来する道を肩引き車で大阪から伊丹まで運んでくれたというのだ。岡田は言った「明日がどうなろうとも、一晩だけでも来山屏風と一緒に眠りたかった」。
 戦争末期と終戦後の約十年間に最も多くの資料を集めた岡田の収集は、鬼貫から出発し、やがて俳諧史全般へと拡大していく。
 昭和四十三年十月に文部大臣賞を受けた岡田の著書『芭蕉の筆蹟』は、彼の収集・研究の集約ともいえる。本書は芭蕉を「筆蹟」という新しい角度から研究した書物であり、筆蹟を中心に据えたその手法は、岡田の独壇場であった。岡田はこの書で、芭蕉の筆蹟と俳諧と人間とを三位一体として論じた。筆蹟の中に進歩・展開を見、不動の個性を分析、そして芭蕉風雅の理念である「万代不易一時流行」との一致を解明したのである。岡田は各文字の細かな手法分析による研究の積み重ねの必要性を説くと同時に印象鑑別−芭蕉の高い格調の感受−は最も大切なキイ・ポイントであるとも述べる。この分野の研究は、コンピューター技術が発達した現在、非常に進歩しているように思われがちだが、実際には技術や知識をもってしても及ばない鑑定者の総合力が重要であり、今後も最も困難な分野となるであろうと推察される。
【伊丹町長・伊丹市長時代】岡田の町長在任期間は昭和十二年十月から同十四年八月まで。折しも十二年七月に勃発した日支事変による政変の慌ただしい時局に町長に就任した岡田は、出征兵士の見送り、軍人家族のための伊丹町軍人援護会の設置、戦死者の町葬執行など誠意をもって政務に当たった。また在職中の十四年一月には稲野村から伊丹町へ合併の申し入れがあり、岡田はこの進捗のためにも尽力した。
 岡田が行政に携わった時期は、伊丹にとっても日本にとっても最も困難な時期であったと察する。岡田が市長職を勤めた期間も昭和二十年十二月から翌二十一年十一月までの、まさに第二次世界大戦彼の混乱期であった。岡田は帰還兵士の出迎えや傷病兵士の見舞いに出向くとともに、市民生活の安定をはかるため、生活物資の確保等に最大の努力を払った。やがて戦後処理が進む中で、伊丹市の将来の発展を考え、神津村との合併交渉を進めた末、昭和二十一年十一月合併の仮調印式が行われた。
【カトリック信者として】伊丹市長に就任する前年の昭和十九年八月、岡田は最愛の妻を亡くした。そして激務であった市長職を退任して二年後の二十三年十一月、小林聖心女子学院の聖堂において受洗した。洗礼名はフランシスコ・トマ。翌二十四年には岡田の自宅に「王たるキリスト教会」の看板が掲げられ、オブレート会の神父によるミサが捧げられた。伊丹カトリック教会の発足である。終生かわることがなかった岡田の信者としての献身的な行いに対し、昭和四十八年九月ローマ教皇よりグレゴリオ・ナイト章が授けられた。
 岡田は梅花女子専門学枚・橘女子大学・英知大学などで教鞭をとったが、小林聖心女子学院専攻科・聖心女子大学は在任期間も長く、岡田をカトリック信仰へ導いた学校として、最も繋がりが強かったと思われる。
【郷土伊丹の人】岡田利兵衛は昭和四十五年十一月、伊丹市最初の名誉市民の称号を受けた。
 江戸時代から醸造業を営む伊丹の酒造家に生まれ、自身も伊丹の行政や文化に深く関与した岡田にとって伊丹に対する郷土愛はゆるぎないものであった。岡田の足跡をたどることは、伊丹の歴史を繙くことでもある。いかなる時、いかなる場所においても岡田は郷土愛を示してみせた。「岡田利兵衛とは?」と尋ねらたら、私は迷わず「伊丹をこよなく愛した伊丹の人間でした」と言うであろう。
 岡田は昭和五十七年六月五日伊丹に没したが、同年三月伊丹市が中心となつて設立する財団法人へ俳諧資料を寄贈する意志表明をした。(財)柿衞文庫は岡田利兵衛の生涯の結晶であり、伊丹が育んだものである。今後も伊丹の人々に愛され、伊丹に深く根を張って、広く世界にも枝葉を伸ばしていく柿衞文庫でありたいと願っている。