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目次
江戸時代の酒蔵を調査して……………………1
旧岡田家住宅酒蔵築330周年によせて『伊丹のまちと旧岡田家住宅・酒蔵』…………2〜7
(財)柿衞文庫の二十年………………………8〜13
西国街道を歩く…………………………………14〜15
平成16年度博物館もよおし案内………………15
事業の回顧・編集後記…………………………16〜18

江戸時代の酒蔵を調査して
ー有岡城跡・伊丹郷町遺跡第280次調査から−
中畔 明日香

 阪神大震災以降、JR伊丹駅と阪急伊丹駅の間に広がる有岡城跡 伊丹郷町遺跡では、マンション建設計画が進み、酒蔵跡を発掘する機会が多くなりました。
 昨秋、約2ケ月間、中央3丁目にて行いました調査も、マンション建設に伴うもので、調査直前まで、「大手柄酒造」の店舗(酒蔵)がありました。
 「大手柄酒造」の調査は、今回で2回目です。1回目(現市道)の調査では、江戸時代以降の酒造遺構や有岡城期の堀が発見されました。(調査後、堀を紹介する解説板を現地に設け、堀の部分については、道路のタイル張りで色分けされて表示しています。)また、2回目(現大手柄酒造本社棟)の調査でも、江戸時代以降の酒造遺構が発見されています。
 今回の調査でも、1 2回目の調査と同様に、江戸時代以降の酒造遺構が発見されました。調査前まで建っていた店舗から「正徳4年(1714)」の棟札が発見されていますので、この場所で、約300年間、酒造りが行われていたことになります。
 酒蔵を発掘調査して発見される酒造遺構には、井戸・竈・搾り場(男柱)などがありますが、今回の調査では、井戸が4箇所、竈が8箇所、男柱が2箇所見つかりました。これらは、その当時の人々が生活面(土間)より下に掘ったものです。それをまた、現在の私達が、掘り上げているのです。
 左の〈写真〉は、今回の調査で発見した江戸時代後期に稼動していた酒造用の竈です。内径約1m40cm(写真左)と内径約1m(同右)の大きな2連式の竈で、写真手前に階段と思われる大きな石が残っていました。このような酒造用の竈は、米を蒸すための「大釜」と、湯を沸かすための「脇釜」が必要であるため、大抵2基1組で使われます。
 発掘現場で発見された竈が実際にどのように使われていたか想像してみましょう。下の〈図〉は、江戸時代後期に描かれた『日本山海名産図会』の一部で、この絵図には当時の伊丹で行われていた酒造りがとても丁寧に描かれています。江戸時代の「蒸米」の作業風景は、階段を降り、半地下になつた作業場で、焚き口に薪をいれる人や、甑の上で蒸しあがった米を取り出す人、それを桶に入れ選ばうとする人なとの蔵人達が見て取れます。
 江戸時代に生きた人々の生活を発掘調査だけで考えるには限界があります。そんな時、このような絵図や古文書がヒントになることが少なくありません。また、発掘調査をしている最中にはわからないことが多いですが、調査後、発掘した資料の整理作業を進める中で、「なるほど」と謎がとけてくることもあります。これからも、発掘調査で得られた資料を研究し、この「なるほど」を皆さんにお届けしたいと思います。
(伊丹市教育委員会生涯学習部社会教育課)

重要文化財 旧岡田家住宅・酒蔵築330周年によせて
『伊丹のまちと旧岡田家住宅・酒蔵』
教育委員会 社会教育課副主幹
小長谷 正治

はじめに
 重要文化財「旧岡田家住宅・酒蔵」は、本年、築330周年を迎えることになった。建てられたのは江戸時代前期、延宝二年のこと。西暦では1674年、徳川4代将軍家綱の治世にあたる。以来今日までの間、所有者が何度も替わり、天災・人災にも遭いながらその姿を保ってきたことは、伊丹のような都市部にあってはなおさら奇跡に近い。市内はもとより全国をみても古式で、年代の明らかな町家建築としては、全国で8番目の古さという(財団法人文化財建造物保存技術協会後藤玉樹氏助言)。
 伊丹のまちは、有岡城(伊丹城)の城下町として生まれ形づくられてきたが、その後の発展は、江戸時代初期に酒造りが根付いたことがきっかけと言われている。
 旧岡田家住宅建築の9年前、寛文五年(1665年)には、伊丹のまちには36人の酒造家がいて、七万九千石の酒を醸造し、当時既に酒造りのまちとして変化を遂げていた。伊丹の酒造りが、いつ頃に始まりどのように発展していったか、わからないことが多いが、おそらく、鴻池において清酒醸造が始まった頃(慶長五年=1600)には、酒造りが本格化していたと推測される。

旧岡田家住宅・酒蔵の場所
 岡田家住宅・酒蔵の所在地は、旧町名で米屋町にあたり、伊丹郷町を南北に貫く本町通りから昆陽口通りを少し西に入ったところに正面玄関がある(江戸中期以降には隣接の泉町にまで酒蔵が広がった。)。東隣りの泉町はもと柴屋町とも言った。柴屋町・米屋町の北側には鍋屋町、南には魚屋町、材木町、竹屋町など、古くからの町は職業名で呼ばれているものが多く、有岡城時代の城下町のなごりと見られる。
 天正十(1582)年六月におきた「本能寺の変」のあと、城主の池田之助が美濃国に転封となり、有岡城(この頃は再び伊丹城と呼ばれていた)は廃城になった。櫓や門、侍屋敷などは廃城後早々に撤去されたと見られ、7年後の天正十七年、有馬温泉に向かった豊臣秀吉一行は、城ではなく、魚屋町の岡田次郎左衛門家に宿泊している。廃城という町にとっての大事件から伊丹の町は立ち直り、当時すでに新たな町づくりが進められ、関白秀吉の宿泊所となるほどの有力者も成長していたことになる。
 伊丹の町は、秀吉が大坂に本拠を構えた頃から、大坂から北摂・丹波地域を結ぶ伊丹街道の道筋となり、伊丹はその宿駅に指定されている。それまでは、京都と九州などを結ぶ西国街道が最も重要な幹線道路であったが、この頃には、大坂を経由する道が主要道路に替わり、伊丹はその交通の中継地としての地位を確保している。

伊丹の酒造り
 伊丹の北郊、伊丹市鴻池中北の児童公園内に中国貨幣(布貨)をかたどった「鴻池稲荷嗣碑」が亀型の台石(亀趺)の上に建っている。碑文には、出雲国を治めた尼子氏の重臣、山中鹿之助の子新六幸元が当地で酒造を始めた経緯と「諸白澄酒」(清酒)の醸造に成功し、江戸に販路を開拓したことなどが記され、鴻池が「清酒発祥の地」と言われる根拠の一つとなつている。鴻池での清酒醸造の開始は慶長五年(1600年)、天下分け目の「関ケ原の戦い」の年だという。

江戸前期の銘醸地
 江戸前期の江戸積み酒造地は、伊丹・池田を中心として、川辺郡内には鴻池・大鹿・山田(以上、現伊丹市)・清水・尼崎(以上、現尼崎市)に点在していた。鴻池・大鹿・山田の酒造業は、その後の幕府の酒造統制などにより次第に没落していくため、今ではこの地域の酒造りのなごりはないが、山田には、寛文5年(1665年)当時、十一人もの酒造家がいたという。また、元禄十四年(1701年)に刊行された「摂陽群談」には、「大鹿酒」について「河辺郡大鹿村に造之、凡そ此辺の酒、山の流麗水を汲んで造るを以て、甚香味なり」と記している。

酒造家松屋与兵衛
 旧岡田家住宅の当初の所有者は、「岡田家文書」などの古文書の調査と発掘調査、および建築の調査によって明らかになった。それによると、330年前の建築主は松屋与兵衛で、のちに鹿島屋滑石衛門に譲渡され、明治に至って安藤由松の手に渡り、岡田家の所有となつたのは明治三十三年のことで、松屋から鹿島屋、安藤家、岡田家と酒造家四家にわたって受け継がれたことになる。このような酒蔵の譲渡は別に珍しいことではなく、例えば銘酒「男山」や「剣菱」などのブランドは、酒造家が替わっても引き続き醸造されていることでもわかる。松屋の醸造した「松緑」は、鹿島屋に受け継がれ、現在の所有は小西酒造株式会社で、最近純米酒「松緑」が復活されている。
 松屋兵与衛は、寛文五年、伊丹の酒造家36人の一人として、旧岡田家住宅が建てられた延宝二年の9年前、酒造株高七七〇石あまりを醸造する比較的小規模な酒造家であった。当時の伊丹の酒造家では、油屋・丸屋・升屋・稲寺屋が有力で、油屋勘四良などは3株を所有し一万千百十二石、稲寺屋治朗三郎は2株、四一七一石の株高をもっていた。
 松屋兵与衛の初見は、寛文五年でそれ以前のことはわからない。正徳五年(一七一五)には、酒造株高を一〇一四石に増やし、経営の拡大を図っている。ところが、享保七年(一七二二)になつて、松屋の江戸出店の手代が大金を持ち逃げするという事件がおこり、それがきっかけか、同9年には、酒蔵を鹿島屋滑石衛門に貸して酒造りから撤退を始め、結局、その5年後には鹿島屋に酒蔵を譲渡している。

松屋の建物と酒
 平成七年の阪神・淡路大震災によって被災した旧岡田家住宅は、同年より4カ年をかけて現在のような姿に解体復元工事を行った。それに先立ち、教育委員会が発掘調査を行ったところ、延宝二年築の現在の建物直下に、それより古い酒蔵が存在することがわかった。この前身の酒蔵跡の酒造り用竈(カマド)は規模が小さく、何度も造り替えが行なわれていた。この調査では、奥の蔵から「松屋」と「三つ鱗」の文様が墨書された礎石が6点出土した。「松屋」は松屋兵与衛のことで、三角の中に逝三角を描く「三つ鱗」の文様は、銘酒「松緑」の商標であることから、奥の蔵も松屋が建てたことがわかった。これにより、蔵の建築年代は鹿島屋清右衛門に所有が移る享保十四年以前の建築だったことが確認された。

鹿島屋清右衛門
 鹿島屋清右衛門は、大坂天満の出造り酒造家で、先の松屋蔵を取得して以降、伊丹の酒造家として着実に経営を拡大していった。宝暦十年(一七六〇)には松屋蔵を本店として、もう一蔵取得し、幕末の天保三年(一八三二)頃には、本店のほか中之町店と北出店の3蔵を所有するようになり、伊丹で中堅の酒造家に成長している。
 鹿島屋は美術館庭園にあった大蔵(千石蔵)を建増すなど、本店酒蔵の拡充も行っている。明治三年に7蔵を所有するまでになっているが、その実情は4蔵が休蔵、2蔵が貸与され、稼働していたのは米屋町の本店(旧岡田家酒蔵)だけで、同九年には廃業し、同十三年頃までに本店蔵は安藤由松の手にわたっている。鹿島屋は、一貫して「松緑」を主要銘柄として醸造を行っていた。

安藤由松
明治二十年の安藤由松は、旧鹿島屋本店蔵1蔵の所有で、一四二八石の醸造を行っているが、早く同三十三年には、安藤やすから岡田正造へ所有が替わっている。

岡田家所有となってから
 昭和一人年の戦時酒造統制による企業整備により、鹿島合名会社・村岡貞一・田中徳松・石橋真三郎と岡田利兵衛の5酒造業者により有限会社伊丹酒類興業が設立され、岡田家酒蔵で醸造が続けられた。その後、昭和四十三年に株式会社大手柄酒造と改称し、旧岡田家酒蔵は大手柄酒造北蔵として使用されたが、昭和五十九年に北蔵を廃業、昭和六十一年に伊丹市に売却された。
 以上、重要文化財旧岡田家住宅・酒蔵の所有者の変遷をたどってきたが、これだけの経歴がありながら、建物の改造に留まり、建替えられなかったのはやはり奇跡と言うほかない。

重要文化財指定
 昭和五十九年、市文化財指定に向け、当時大阪市立大学鈴木充先生に建物の調査をお願いしたところ、店舗屋根裏から建築年代を示す棟札が発見されて一挙に文化財の価値が高まった。それまでの岡田家酒蔵の建築学的評価は、それほど高いものではなく、建築年代も一九世紀初めと推定されていた(伊丹市史第6巻)。ところが、棟札の発見により、建築年代が明らかになったばかりか、建築年代が一挙に百数十年遡ることになった。こうした調査結果を踏まえ、昭和五十九年七月市文化財指定、昭和六十三年二月に県文化財指定を受けることになつた。その後、重要文化財指定を受けるため、専門家による「旧岡田家住宅・酒蔵調査委員会」を組織し、本格的な建物の調査を実施するとともに、重要文化財指定後の活用について、「旧岡田家住宅活用委員会」を組織して、「宮ノ前文化ゾーン」全体の活用策の検討を始めた。そうした地道な調査・検討が功を奏し、平成四年の国指定を受けることができた。

解体修理に向けて
 解体修理前の状態を覚えておられる方は、現在の姿をご覧になつて驚かれる。正面から見ると、修理後は壁や軒は漆喰の塗り込め仕上げとなっているが、解体修理前は二階の約半分が漆喰の虫籠窓、残りが鉄格子にガラス窓、側面の壁はすべて板張りとなつていた。また、玄関は鉄製のシャッターで、見た目にも江戸前期に遡る建築とは思えなかった。こうした改造は、概観だけでなく、内部にも及んでいて、長い間に間取りが大きく変更され、土間はコンクリート打ちに変わっていた。
 文化財建造物の解体修理の手法として、原則は建てられた当時の姿に戻すことであるという。何度かの事前の調査と解体中の調査によって、かなり当初の姿がわかってきた。結局は元のとおりに戻されたわけであるが、内部の間取りはすべて長い間に変更されていたことがわかった。
 経済活動が活発な伊丹のような都市部では、農村と適い、不動産の資産価値が高い。その結果、所有者も時代の経済状況によって変わることが多く、建物の用途の変更による建替えや内部の改造など活発に行われる。旧岡田家住宅・酒蔵の場合、330年前に建てられて以降、所有者が替わろうとも一貫として酒造家によって所有され、酒蔵として使用されてきたことが、結果的に建替えが行われず改造に留まった大きな理由であろう。
 伊丹市では、重要文化財指定から全面解体修理と活用について、文化庁・兵庫県教育委員会と協議を重ねてきたが、その矢先に震災が発生した。震災による被害は、店舗の大屋根と酒蔵の下屋が落下したほか、店舗が大きく傾くなど甚大な被害となつた。応急的な対応はできても、急ぎ解体修理を行わなければ建物にさらに大きな悪影響を及ぼすという判断から、同年より4カ年をかけて解体保存修理を行うことになった。

発掘調査でわかったこと
 発掘調査は、建物の解体の順序に合わせて進め、6次にわたっておこなった。こうした文化財建造物の解体修理の際にその地下を発掘調査する目的は復元に向けてのデータを得ることである。
 旧岡田家住宅の発掘調査で明らかになつたことを整理すると、重要な点は以下のとおりである。
 一、旧岡田家住宅の前身建物も酒蔵であった。
 二、建築当初から酒蔵として建てられた。
 三、当初は店舗が釜屋を兼ねていたが、後に独立して、釜屋が建てられた。
 四、奥の酒蔵も松屋兵与衛が建築した。
一について。
 旧岡田家住宅の建築面をさらに掘り下げると、下層から礎石建物跡と酒造用の竈が多数発見されたことから、延宝二年以前からこの場所で酒造りが行われていたことが判明した。旧岡田家住宅の建立者である松屋は延宝以前の寛文五年には酒造業を行っていたことから、あるいほ、松屋が同じ場所で酒蔵を建替えたのかも知れない。
二について。
 発掘調査前の見解では、当初は住宅(店舗部分)として建てられ、後に酒蔵に改造したとされていたが、発掘調査を行ってみると、建築当初の酒造用竈が土間から発見された。この結果、当初から酒蔵として建てられたことがわかり、日本最古の現存酒蔵の評価が可能となった。
三について。
 現在の釜屋・洗い場は、店舗と酒蔵の間にあるが、元は店舗土間にその機能があり、江戸時代の末頃に現在の場所に移設したことがわかった。
四について
 酒蔵の下屋の礎石から、「松屋」と墨書きされた礎石が見つかっていることから、酒蔵も松屋の建築であることが証明された。この結果、酒蔵の建築時期は、鹿島屋がこの蔵を買い取る享保一四年(一七二九)以前ということになる。
 以上のように、発掘調査で得られた事実は多く、建物の復元に大きく寄与した。この発掘で見つかった男柱や竈の一部は、発掘された状態のまま展示・公開している。

みやのまえ文化の郷
 震災の翌年、宮ノ前市街地再開発事業用地内にあった石橋家の建物を旧岡田家住宅の東側隣接地に移築する作業を始めた。石橋家住宅は、猪名野神社の門前通りに面した商家で、建築年代ははっきりしないが、おそらく江戸時代の終わりから明治初年頃と推定されている。建てられた当初の店構えがそのまま残る貴重な建物で、とくに、正面玄関は二階まで縄で吊り上げる「吊り上げ大戸」の形式がそのまま残り、玄関右側は、下方が「ばったり床机」、上方が「跳ね上げ戸」となって開店時には全面開放される仕組みになっている。当時の伊丹では一般的な形式だったのかも知れないが、現在では他に残っていない貴重な遺構である。
 町家の特徴は、軒を並べるところにあり、隣に石橋家住宅が移築されて伊丹郷町の景観が少し復元された。また、石橋家住宅の隣には、コンクリート造りの管理棟が、概観を町家風にして建ち、さらに町家らしい景観が再現できた。江戸時代後期の伊丹郷町には、3000軒の町家と1万人の人口を抱え、近郷で唯一の都市でした。江戸後期の3000軒のうち、現在までに残っているものは何軒あるでしょうか。そう考えると、旧岡田家住宅330歳は大変なものだということがわかります。

旧岡田家住宅築330周年記念事業
 今年の秋、教育委員会社会教育課、博物館、美術館そして文化振興財団、柿衞文庫などが330年を祝って、記念事業を繰り広げます。柿衞文庫では旧岡田家酒蔵の関係から「伊丹酒」と「文芸」の観点から展覧会・講座・講演会などが催され、博物館では「酒の町 伊丹郷町」と銘打って展覧会が、社会教育課では建築史の立場から講演会などを開催する予定となっています。どうか大勢の方々にお集まりいただき、旧岡田家住宅の築330年を祝いたいものです。

(財)柿衞文庫の二十年
柿衞文庫副館長 今井美紀

 今秋、財団法人柿衞文庫は、昭和五十九年十一月三日より数えて開館二十周年を迎える。
 そこで、柿衞文庫の二十年のあゆみをまとめてみたい。

○柿衞文庫の開館と文化ゾーンの形成
 伊丹市名誉市民で国文学者、聖心女子大学名誉教授の岡田利兵衛氏は、その貴重な俳諧資料の寄贈による財団法人の設立を強く希望、没直後の昭和五十七年七月一日、伊丹市の全面的な支援を得て、岡田正朗館長(岡田利兵衛氏長男)のもとで財団法人柿衞文庫が発足した。
 二年後の昭和五十九年六月に旧岡田邸の一角に建物が完成し、同年十一月三日に開館のはこびとなつたが、この建物の建設に際しては、設計コンペティションが行われ、坂倉建築設計事務所の提示した、白壁に瓦葺きの酒蔵風建物案が採用され、建設には竹中工務店があたった。開館に向けて、昭和五十九年四月には常勤一名・嘱託二名が採用されたほか、主査および主任学芸員各一名が伊丹市より派遣され、佐坂茂男伊丹市教育長(当時)が館長に就任した。
 そして、昭和五十九年十一月三日に開館、翌昭和六十年三月二十九日を以て登録博物館として官報告示された。
 その後、昭和六十二年には、増設のかたちで伊丹市立美術館が設置・開館、柿衞文庫と一体的な事業道営がなされるようになる。すなわち、玄関入口やホール、事務室、館長室等は共用し、二階展示室および講座室については、両者の事業を調整したうえでの使用となったのである。したがって、この時期から、柿衞文庫の特別展は、春秋二回となり、その間、すなわち美術館が特別展を行っている期間の柿衞文庫の展示は、一階の常設展示場のみとなった。そこで開館以来用いていた「常設展」を「小企画展」に変更した。なお現在は「企画展」と称している。また展覧会の開催期間は市立美術館と同一時期としたが、展示替期間中、すなわち展示室の閉鎖中も講座や閲覧業務は独自に行っている。
 職員については、同年四月一日付で発令された市立美術館の職員四名が、柿衞文庫職員を兼務し、さらに翌昭和六十三年四月一日からは、市立美術館の大河内菊雄館長が柿衞文庫館長に併せて就任したのである。大河内館長は、俳人で俳諧収集家であり後にその蔵書を東京大学図書館に寄贈した岡野知十を、母方の祖父に持ち、専門の美術史にとどまらず俳譜俳句についてもたいへん造詣が深く、後述するように、以後の柿衞文庫の事業運営は、大河内館長のもとで非常に広角度に方向づけられたといえるであろう。なお、平成十五年四月一日より伊丹市教育委員会生涯学習部石割信雄部長が第四代館長に就任した。
 平成元年には市立美術銀に隣接して市立工芸センターが設置され、各館の中央に広がる庭園も整備された。そのさい惜しくも頼山陽遺愛の柿の古木は枯れてしまったが、他所で育てられていた接ぎ木の二世の柿の木が、庭内に移植された。なお、古木の方は、平成六年に現代美術作家の大久保英治氏の手で作品としてよみがえり、「つどい」と名付けられて柿衞文庫ロビーの庭園をのぞむ一角に据えられている。あたかも山陽とその仲間の文人たちが伊丹酒を酌み交わしながらのつどいを楽しんでいるかのように。
 平成七年一月十七日未明の阪神淡路大震災は伊丹市域にも甚大な被害をもたらした。柿衞文庫に関する限り、外壁のひび割れや床・天井などの亀裂、可動式書架の歪みなどの被害はあったものの、収蔵資料や展示資料には幸いにしてさしたる損傷がなかった。阪急伊丹駅周辺の被災状況が報道されるとともに、全国各地や海外からも多くのお見舞いや励ましの手紙や電話をいただき、職員一同あらためて、貴重な資料を確実に次代へ伝えていくことの責任の重大さをかみしめた。
 柿衞文庫から庭園をへだててのぞむことができる国指定重要文化財の旧岡田家住宅・酒蔵は、この地震で大屋根のうねりや柱の傾きなどの被害をうけ、解体補修の着工が早まった。途中、平成十一年の柿衞文庫開館十五周年記念の中村苑子・桂信子両氏の対談や、「鬼貫をフランス語で」と題するレクチェアコンサートなどがこの酒蔵で催された。平成十三年五月、移築された石橋家住宅、新築された管理棟(新町家)に旧岡田家住宅・酒蔵をあわせ、柿衞文庫もともに、「みやのまえ文化の郷」がオープンした。それを機に、美術館・工芸センターの運営は財団法人伊丹市文化振興財団に委託され、共有していた美術館事務室は新町家に移転した。
 重文の岡田家酒蔵は、建築年代の明らかな、現存する我が国最古の酒蔵で、柿衞文庫とともに江戸時代の伊丹の酒造業の繁栄を今に伝える貴重な存在である。柿衞文庫で俳諧俳句の直筆を味わい、酒蔵に佇めば、伊丹の歴史と文化をまさに体感することになる。

○事業の展開
 財団法人柿衞文庫の設立趣意書に記されるように、柿衞文庫の事業の目的とするところは、「岡田利兵衛氏が収集した俳諧文学に関する図書及び資料の整理保存及び公開展示を図るとともに、その調査研究を行い、もって我が国文化の向上に寄与する」ことにある。そしてこの目的を達成するために、「寄附行為」には
 (1) 柿衞文庫に収集した俳諧資料の保存及び随時公開
 (2) 俳諧丈学に関する調査研究
 (3) 俳諧文学に係る出版物の刊行
 (4) 講演会、研究発表会等の開催
 (5) その他目的を達するために必要な事業
を行うことが定められている。そこでこの順序にしたがって、当文庫の二十年の事業のあゆみを振り返っていくことにしよう。
 まず資料の収集についてであるが、財団設立時に柿衞翁の収集による俳書や真筆類約六千点余が基本財産となつた。柿衞翁の資料収集の目的が学術研究のためであったので、たいへん系統的で水準の高いコレクションであり、中世の俳諧連歌から近代・現代の俳人に至るまでの作品を擁し、四百年にわたる我が国の俳文学のながれを一級資料によりたどることができる。さらに開館後は、多くの方々からの寄贈・寄託や、購入が相次ぎ、所蔵資料は九千点を越えている。
 その全貌を明らかにするために、開館当初より所蔵目録の作成事業を進め、「俳書」については平成二年、「短冊」については平成十一年にようやく目録が刊行されたが、日月を費やしただけあって両目録ともその内容的な評価は高い。現在「真蹟」すなわち懐紙や書簡など直筆資料についての目録の作成作業中であるが、これが刊行されれば当文庫の所蔵資料の活用度はいっそう高まるであろう。ちなみにマイクロフィルム化も早い時期から着実に行っており、これも資料の多角的な活用につながっている。
 「寄附行為」には簡単に資料の「保存」と「公開」と並列されているが、現実的にはこの二つはあきらかに矛盾する行為である。公開すればするだけ、可視不可視にかかわらず資料の損傷は進行するのであるから。とくに古い時代、近世以前の資料についてはそれが顕著である。せっかく現在まで伝えられた資料を、可能なかぎり良好な状態で次代へ引き継ぐということは、当文庫に課せられた第一の使命である。この「保存」と「公開」のはぎまで現場は苦慮するのであるが、マイクロフィルム化などはその解決策の一端といえるであろう。
 「公開」の代表的なものが、展覧会である。ガラスケースの中とはいえ、実物を至近距離でじっくり見ることができる貴重な機会となる。特にバーチャルなものがごくあたりまえである時代を生きる者にとって、いやそれだからこそよけいに、実物=本物にふれることは、たとえガラス越しであっても非常に大切なことである。
 当文庫では、先にも触れたように、春秋二回の特別展と、その合間を縫うように四〜五回の企画展を実施してきた。企画展は所蔵資料を主体にテーマを設けて行い、特別展は館外資料をも借用して、所蔵資料の価値に、より大きなふくらみを持たせる展覧会としている。特別展の詳細については別表を参照されたいが、いずれをとってみても、一貫して俳諧・俳句にかかわる当文庫ならではのユニークなものとなっている。
 たとえば「俳趣・画趣」・「俳譜の刷り物−一枚摺の美」・「絵入り俳柵朋とその画家たち」・「遊俳の風雅」や「俳画の流れ」シリーズにみられるように、従来エア・ポケット的に扱われていた、文学と美術の狭間に位置するテーマを積極的に取り上げたり、同質のコレクションを有する出光美術館や逸翁美術館と共同開催で「芭蕉展」・「蕪村展」を実施するなど、独自性が際立つ展覧会を展開している。たびたび文化庁文化芸術振興基金等による助成がなされているのも、そうした点が評価されてのことであろう。また、東京の俳句文学館の協力を得て同館所蔵の作品を紹介したり、ホトトギス誌の創刊百年を記念して同社の百年記念展を行い、さらに大阪俳句史研究会との全面的な共同研究のもとで古今の兵庫県ゆかりの俳人展を開催して、人国記的な解説書を刊行するなど、俳句実作者との連携に基づく展覧会も試みてきた。最近では、「夢望庵文庫にみる近代の俳画」展に始まる、隠れた俳諧コレクションによる展覧会シリーズを企画、「生誕百年記念 山口誓子展」・「阪神間と河東碧梧桐」・「芭蕉に帰れ 蕪村と暁台」と継続している。
 昨夏には少し趣を異にした展覧会「戦場から妻への絵手紙」展が話題となった。この展覧会は、当文庫の創設者岡田柿衞翁と親交のあった故高澤絹子氏から七百通余の絵手紙が寄贈されたことが契機となり急遽企画された。それらはいずれも中国やフィリピンの戦地の夫から送られたもので、検閲済の印が押されたはがきに水彩でのスケッチや俳句・短文が描かれている。戦後六十年を迎える来夏には、この絵手紙に関する、より本格的な展覧会を考えている。
 企画展については、回数的には特別展の数倍行われているので一覧表を作成しなかった。当初は「常設展 伊丹文化と柿衞文庫」というタイトルのもと、季節や俳諧史の流れに添って小テーマを設けて行われていた。その後は、まとまって資料が寄贈されたり、資料調査の過程で新たな資料が発見されたりすると、それを中心に構成するなどトピック的なテーマを取り上げたり、「季語を考える」「岡田利兵衛にみる」「二十年の精華 新収資料を中心に」といった統一テーマで一年をまとめたりする工夫を重ねている。
 「公開」にかかわる事業には、以上のような自館での展覧会開催だけでなく、他館への資料貸出もある。それも他館の企画展覧会へ一部資料を出品する場合と、当文庫の資料のみで構成する展覧会を当文庫以外の場所で行う場合がある。前者の場合は、当文庫の資料が館外の専門家の目で異なった角度から研究されるため、資料の意外な、新しい価値が見いだされ付加されることがしばしばある。また後者の場合は、当文庫そのものの存在価値があらためてあきらかにされるのである。
 たとえば昭和六十三年には大阪の大丸ミュージーアムでサンケイ新聞社(当時)主催の「柿衞文庫蔵与謝蕪村と門人たちの書」展が、平成三年には東京の江東区芭蕉記念館で、「“芭蕉”風狂の世界−柿衞文庫館蔵名品展」が開催されて、ともに話題となった。しかしその最たるものといえば、ベルギーで平成元年に開かれたユーロパリア・ジャパン「俳画展」である。ヨーロッパ芸術文化祭(ユーロパリア)で日本がテーマ国となったこの年に、日本委員会からの要請により公式プログラムとして、伊丹市の姉妹都市ハッセルト市で約一ケ月半にわたって、柿衞文庫所蔵の俳画をテーマに展覧会が行われた。「HAIKU(はいく)」あるいは「HAIKAI(はいかい)」という言葉で文芸の方はやや認識されていても、それに画をつけて楽しむ文化はほとんど知られていないヨーロッパの地に、初めて「ITAMI」の「KAKIMORI・BUNKO」や「HAIGA」の存在をアピールしたのであった。期間中には、ベルギー王室のフエビオラ王妃や竹下首相(ともに当時)の来場を得るとともに、ヨーロッパ各国から四千名を越える来観者があり、墨と日本独特の顔料が織りなす詩と画の世界は、深い感銘を与え、多くの賛辞がよせられた。
 さらに一般刊行物への写真提供や研究者への資料閲覧などももちろん「公開」の事業に含まれる。特に芭蕉の作品、なかでも「ふる池や」の句の芭蕉直筆短冊や、近松門左衛門画像などは、毎年きまって国語や社会の教科書や学習参考書に掲載されているし、文学関係のグラフ雑誌などからの掲載依頼も多い。ただ、最近の傾向としてはテレビやビデオ、インターネット上での使用要請などが増えつつあるが、特にインターネットでの使用については、画像管理上の問題点も多く、慎重に対処せざるを得ない状況である。
 以上のような資料の「公開」事業の基礎となるのが調査研究事業である。前述した目録の作成途上では、所蔵資料について一点毎の詳細なデータを取ってきた。俳書と短冊については一応のところを終えて目録を刊行したが、その後入庫してきた資料も多いし、短冊などは作者不詳のものについては調査を保留しているものもある。加えて直筆資料については、目録原稿作成が緒に就いたばかりである。非常に地味で継続的な作業であるが、所蔵資料の価値をいっそう高めるためにも、時間がかかってもひたすらこつこつと行わなければならない作業である。展覧会の企画・準備段階での調査研究もまた、テーマが独自性を持つだけに、先行事例も研究も少なく作業は難航する。ただそうした作業が認められて、秘蔵の名品の特別展への出展許可を得た場合も多々みられるが…。
 講演会等のいわゆる普及教育事業についても、当文庫の特色をいかすべく、さまざまな企画を展開してきた。開館以来二十年来の姿勢として、来庫者が単に展覧会を見るだけでなく、講座・講演会を聴講し、自ら疑問点を調べ、研究し、作り味わい、ともに語ることを楽しむ、博物館+図書館+サロンの機能を果たすことを目的としてきた。したがって当文庫主導の講座にも、柿衞本『奥の細道』などの所蔵資料をテキストとして読み解く講座や、作句・連句・日本画などの実技講座を当初から設けている。櫻井武次郎親和女子大学数授(開講当時)を講師に迎えて行われた「奥の細道」を読む講座から生まれた、芭蕉と奥の細道ゆかりの地を訪ねる修学旅行は、昭和六十一年の第 一回から平成十四年の第十七回まで、あの阪神淡路大震災の年も中断されることなく(さすがに行き先は近江地方という近隣であったが)続けられたのである。
 平成五年には坪内稔典京都教育大学教授(当時)を塾頭に俳句塾也雲軒が設けられた。通常の俳句教室とは異なり、指導の俳人が回によって替わること、単に句を作って指導者の選を待つのではなく、各自発言の場が与えられること、当文庫の展示を見て作句するなどユニークなものとなつている。時には異なる分野の専門家のお話をうかがったり、講師を招いて「ことば」についてさまざまな方向から考えたりと、俳句作りの視野を広げるために活発な活動をしている。
 也雲軒に限らず、当文庫にお招きした講演会や講座の講師陣は、個性豊かなそうそうたる方々ばかりである。故大谷篤蔵先生に代表される俳文学・近世文学の学者の諸先生方、稲畑汀子先生をはじめ結社の主宰として活躍されている俳人のみなさま、そして開館十周年には生物学者岡田節人先生(文化功労者 岡田利兵衛氏次男)を、同じく十五周年には大岡信先生をお招きしたし、「岡田 利兵衛著作集」の刊行記念には、文部大臣に就任される直前の有馬朗人先生にご講演を、また伊丹市在住の芥川賞作家田辺聖子先生には、対談やご講演をお願いしている。
 全国的な諸大会にかかわる事業もいくつか開催している。すなわち、
・昭和六十三年十月 国民文化祭ひょうご88文芸大会俳句部門
・平成二年十月 俳文学会全国大会
・平成十年十月 全国生涯学習フェスティバル
 特別展「兵庫ゆかりの俳人」・俳句ラリー伊丹
・平成十二年八月 NHK学園生涯学習フェスティバル 伊丹俳句大会・短歌大会
などがあげられる。いずれも当文庫ならではの大会である。そしてまた俳諧研究と俳句実作両面に関するものである。この二面はいわば当文庫の活動の両輪であり、その点は、当文庫が授与している「柿衞賞」と「鬼貫賞」に明らかである。
 「柿衞賞」は、俳文学会全国大会の開催を機に平成三年に設けられた。従来は柿衞翁の業績を称え、その人柄をしのぶ講演会を主に行っていた柿衞忌に、選考委員会で推薦された将来性ある四十歳未満の俳諧研究者にこの賞を授与するようにしたものである。平成七年は大震災のため中止となったが、本年で十三回を数える。十三人の受賞者のうち女性は四名で、特に近年はその活躍ぶりが目立つようである。また受賞年次はかなり隔たるが夫妻での受賞も一組あり、どの受賞者もその後一流の研究者としてしかるべき研究職にある。今後とも柿衞文庫の充実と発展のため、受賞者各位のご協力を期待したい。
 一方鬼貫忌も従来は講演会と句会をあわせて営まれてきたが、同じく平成三年より「鬼貫賞」が制定された。一般の部と小中学生の部(平成十二年からは高校生部門も)に分けて俳句を募集し、入賞・入選句を発表、表彰している。特に児童生徒部門の応募は多く、平成十四年度からは表彰旬に絵(自画賛)をつけて色紙に仕上げるとともに、展覧会も開いているが、制作者の家族を中心に来場者も多く好評を得ている。児童生徒の俳句募集の場は他にもいくつかあるが、絵入り色紙を制作しているところはなく、たいへんユニークな試みと評価されている。
 当文庫のユニークな催しにもう一つ正岡子規記念伊丹野球大会がある。これは「没後百年正岡子規−関西の子規山脈」展が開催された平成十四年から行われているもので、野球好きであった子規のご子孫の正岡家が伊丹にあること、伊丹では社会人野球が盛んで多くのチームがあることから、伊丹野球協会の全面的なご協力を得て継続的に実施されているものである。直接には俳句や子規、柿衞文庫に触れる機会の少ない方々にも、少しでもそれらを身近に感じていただけたらと始められた。幸いにして毎年八十チームを越える参加があるとのことで、優勝チームへは当文庫特製の盾が、正岡氏手づから贈られている。
 以上、端折りながら振り返った柿衝文庫の二十年であるが、この間、地道で個性ある活動が続けられたのは、柿衞文庫友の会の会員の方々、国内はもちろん海外から来館下さった利用者のみなさん、そして物心両面で惜しみない支援をいただいた伊丹市当局をはじめ、当文庫を愛して下さるたくさんの人々のお力添えの賜物である。特に友の会の事業としては、展覧会観覧や講座受講、閲覧ほか諸事業の参加に対する優遇のほかに、「呉春一葉会献立の復元」や「子規の好物を味わう会」、「台柿を賞味する」、「俳跡を訪ねる旅」など当文庫ならではの企画を特別に楽しんでいただいている。
 開館二十年をひとつの節目として、これまでの活動に点検を加えつつ、当初からの一貫した姿勢と二十年間の蓄積をふまえて、今後の活動のビジョンをしっかりと描きだし、地道に着実に前進していきたい。

特別展一覧〈☆印は図録発行の展覧会〉

☆開館記念 館蔵名品展 1984(昭和59)11月3日(土)〜1985(昭和60)1月31日(木)
 −柿衞文庫にみる−花の歳時記 1985(昭和60)4月20日(土)〜6月23日(土)
☆開館一周年記念 館蔵名品展 芭蕉とその周辺 1985(昭和60)10月1日(火)〜11月30日(土)
 −柿衞文庫にみる−鳥の歳時記 1986(昭和61)4月12日(土)〜7月6日(日)
☆館蔵名品展 蕪村とその周辺 1986(昭和61)9月13日(土)〜12月7日(日)
 柿衞文庫百人一句かるた完成記念
 柿衞文庫にみる百人の俳人
 −直原玉青画伯の原画とともにー 1987(昭和62)4月11日(土)〜5月31日(日)
☆館蔵名品展 近代俳句百年の歩み 1987(昭和62)9月1日(火)〜10月25日(日)
☆俳に遊び画に酔う江戸の俳講師 巣兆 1988(昭和63)4月23日(土)〜6月12日(日)
☆館蔵名品展
 鬼貫没後250年 鬼貫と元禄の上方文化 1988(昭和63)9月10日(土)〜11月6日(日)
☆柿衞文庫日本絵画名品展 俳趣・画趣 1989(平成元)4月8日(土)〜5月28日(日)
 芭蕉「奥の細道」300年 開館5周年記念
  館蔵名品展 旅と俳人 1989(平成元)9月2日(土)〜10月22日(日)
 ユーロパリア・ジャパン出展記念 俳画展 1990(平成2)3月3日(土)〜4月15日(日)
 館蔵名品展 伊丹市制50周年記念 俳諧 1990(平成2)10月6日(土)〜11月18日(日)
☆俳請のすり物一枚摺の美 1991(平成3)4月6日(土)〜5月19日(日)
 秋季特別展 短冊 1991(平成3)9月7日(土)〜10月20日(日)
☆絵入り俳書とその画家たち 1992(平成4)4月4日(土)〜5月17日(日)
☆秋季特別展 没後三百年記念 西鶴 1992(平成4)10月31日(土)〜12月6日(日)
 春季展 俳句文学館所蔵品展 1993(平成5)4月24日(土)〜6月6日(日)
☆特別展 没後三百年記念 芭蕉 1993(平成5)9月23日(土)〜10月24日(日) (出光美術館と共催)
 春季特別展 俳人の肖像 1994(平成6)4月9日(土)〜5月15日(日)
 開館十周年記念 柿衞文庫の名品 1994(平成6)10月29日(土)〜12月11日(日)
☆春季展 遊俳の風雅 紅葉・鏡花・小波・知十・洒竹… 1995(平成7)5月27日(土)〜7月9日(日)
☆秋季特別展 俳画のながれI 立圃から芭蕉へ 1995(平成7)9月15日(土)〜10月22日(日) (福山市立福山城博物館と共催)
☆春季展 鬼貫と春ト 1996(平成8)4月6日(土)〜5月12日(日) (伊丹市立美術館と共催)
☆秋季特別展
 俳画のながれ II 俳画の美−蕪村の時代 1996(平成8)9月14日(土)〜10月20日(日)
☆春季展 ホトトギス百年 1997(平成9)3月1日(土)〜4月20日(日)
☆秋季特別展
 俳画のながれ II 俳画の美−一茶の時代 1997(平成9)8月30日(土)〜10月5日(日)
☆「柿衞文庫目録−短冊篇」完成記念特別展
  俳諧の歴史にみる 短冊の美 1998(平成10)4月11日(土)〜5月17日(日)
☆秋季特別展 兵庫ゆかりの俳人 1998(平成10)9月26日(土)〜11月3日(火)
☆特別展 短冊の美 近代篇 1999(平成11)4月3日(土)〜5月9日(日)
 開館十五周年記念展 旅とー芭蕉 1999(平成11)10月30日(土)〜12月5日(日)
☆春季展 夢望庵文庫にみる−近代の俳画 2000(平成12)4月15日(土)〜6月4日(日)
☆伊丹市制六十周年記念特別展
 北摂の風光−文人たちの伊丹・池田・箕面 2000(平成12)10月14日(土)〜11月26日(日)
☆春季特別展 生誕百年記念 山口誓子展
 神戸大学山口誓子・波津女文庫にみる 2001(平成13)4月14日(土)〜5月20日(日)
☆特別展 近世の女性俳人 2001(平成13)10月6日(土)〜11月18日(日)
☆春季特別展 阪神間と河東碧梧桐
  −川西和露・麻野微笑子とともにー 2002(平成14)4月13日(土)〜5月19日(日)
☆秋季特別展 没後百年
  正岡子規−関西の子規山脈 2002(平成14)9月14日(土)〜11月4日(日)
☆財団設立二十周年記念 没後二十年 岡田柿衞展 2003(平成15)4月12日(土)〜5月25日(日)
 戦場から妻への絵手紙 2003(平成15)8月9日(土)〜9月7日(日)
☆没後220年
 蕪村−逸翁美術館・柿衞文庫にみる 2003(平成15)9月13日(土)〜10月19日(日) (逸翁美術館と共同開催)
☆特別展 芭蕉に帰れ 蕪村と暁台
 −京・尾張からの蕉風復興 2004(平成16)4月1日(木)〜5月14日(金)
☆特別展 重要文化財旧岡田家住宅・酒蔵築330年
  もろはくの俳諧−元禄の酒都伊丹の文化 2004(平成16)9月11日(土)〜10月24日(日) (予定)

西国街道を歩く
〜歩くたび、新たな発見が〜
和島 恭仁雄

 伊丹市立博物館が毎年二回「街道を歩く会」を開催していることは、本誌第二六号でも紹介しました。平成十五年度からは西国街道をシリーズでたどることとし、京都市の東寺を起点にとりあえず摂津本山まで一〇回で踏破する計画を立てています。
 その1として東寺から向日市まで、その2として向日市から長岡京市までを実施したあと、その3の長岡京市から大山崎町までを本年五月八日に開催しました。その3で大山崎町から大阪府島本町に抜けたところには山城国と摂津国との境にあたる関大明神社(関戸院)があります。伊丹にある辻の碑(いしぶみ)に「東寺より拾里」とあり、また今は消えてしまいましたが、その下に 「関戸より七里」と刻まれていたことからすると、伊丹までの距離のちょうど三割を歩いたことになります。
 毎回博物館友の会会員が引率のサポートについてくれますが、定員三〇名がすぐ満杯になるので、同じコースをご案内する友の会主催「歴史散策」の実施もお願いしています。
 もちろんただ歩くだけではなく、沿道の道標や常夜燈を初めとする文化財・史跡を一つ一つ見て歩くため、半日で六キロから一〇キロ弱の行程となります。
 実施にあたっては事前に文献等を調査した上、実地調査を一回行なって解説書を作成し、さらに友の会会員の研修会を兼ねて補足調査を一回行なつた上で、市民向けの本番開催という手順です。
 京都から伊丹までは平成五年度に企画展「あるいてみよう むかしの道 IV 西国街道と人びと」を開催したときに一度踏査したことがありますが、一〇年ぶりに歩いてみますと、ずいぶんようすが変わった所もありましたし、前回見落としていたものを新たに発見したり、ルートを思い違っていた所があることに気付いたりできました。なおこのコースでは「京都市史」「向日市史」「長岡京市史」の記述が非常に参考になりました。
 たとえばその1の東寺〜向日市のルートでは、道標が民家の移転とともに失われたという残念なできごとがありました。また街道から少し離れて立ち寄った吉祥院天満宮が菅原道真誕生の地であり、太宰府に配流されるときそこから出発したということも初めて知りました。伊丹市内の臂岡天満宮に伝わる、「道真が配流の際、肘を枕に休まれた」という伝承も思い合わせて興味深く感じました。
 その3の長岡京市〜大山崎町では、まずJR神足(こうたり)駅が長岡京駅と改名され、その旧駅名表示板が神足公民館の前に移設され保存されていた(写真1)こと、神足二丁目にあった愛宕山常夜燈二基が阪神・淡路大震災で被災し、平成十三年に再建されていた(写真2)こと、大山崎町円明寺の小泉橋たもとで特産品タケノコの出荷ルートを開いた三浦翁の顕彰碑(明治二十六年。写眞3)を見つけたこと、トイレをお借りするために立ち寄った大山崎町公民館の構内に道標四基が移設されていたこと、西国街道と久我畷(なわて)道との分岐点に祀られた地蔵尊(写真4)に「右八わた(八幡)道/左よとふしみ (淀・伏見)」と刻まれ、道標の役割を果たしていたこと(大山崎町歴史資料館福島学芸員教示による。なおこの地蔵尊は私有地内にあるため、見学の際は注意を)など、数多くの発見がありました。
 「百聞は一見にしかず」は古い諺ですが、やはり「一見」だけでは見落とし、見間違い、思い違いも生じます。繰り返し実地調査を行なうことの重要性を再認識した次第です。
 「街道を歩く会」の解説書は「むかしの道ガイドブック」シリーズとして続刊中です。また沿道の史跡・文化財や「歩く会」の実施状況を紹介するテーマ展も逐次開催します。西国街道は「伊丹アピールプラン」でも地域資源の一つとして取り上げられています。博物館の行事や刊行物により、一人でも多くの方に街道の魅力を味わっていただければ幸いです。
(伊丹市立博物館長)