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目次
発掘調査の大きな出土品−男柱−……………1
児島晴海翁の碑……………………………2〜5
黒田官兵衛孝高の有岡城幽閉……………6〜8
伊丹郷町の防空壕跡………………………9〜10
平成17年度博物館もよおし案内………………10
事業の回頼・編集後記………………………11〜14

発掘調査の大きな出土品−男柱−
中畔 明日香

 現在、重要文化財旧岡田家住宅・酒蔵内、奥壁際に展示している大きな木製品をご覧になったことがありますか?初めて見た時は、それが何かわからず、不思議な物体にただ驚かれるのではないでしょうか。
 この二つの木製品は、酒造りの遺構である搾り場の「男柱」(の基礎の部分)です。昨年度、共同住宅建設に先立って行われた、有岡城跡・伊丹郷町追跡第二八三次調査で発見されました。江戸時代、酒造業で栄えた伊丹郷町を物語る、貴重な遺構(遺物)であるため、保存を決定し、旧岡田家酒蔵に移しました。(その後、毎日、保存協会事務局の方々に、薬剤散布を、協力いただいています。)
 『日本山海名産図会』(寛政一一/1799年刊)には、「伊丹酒造」として、米あらい→麹醸→?おこし→もろみ仕込→搾り(図2)の順に描かれています。図の左端に見えている柱が「男柱」です(矢印部分)。「男柱」は、角柱で描かれています。この絵が描かれた江戸時代後期の酒搾りの様子がよくわかります。
 発掘調査で検出される搾り場は、大抵、「男柱」を抜き取った跡=穴しか残っていません。それは、搾り場をつくり直す際に「男柱」を再生利用するためではないか、と考えられています。しかし、今回の「男柱」は、上部こそありませんでしたが、基礎の部分は据えた当時そのまま残されていました。
 旧岡田家酒蔵には、解体工事中に発見された男柱が、その場所で保存、上部を復元して展示されています。調査の結果、十八世紀前半につくられたと考えられています。今回発見された「男柱」は、使用材は松で同じですが、旧岡田家の男柱が、材が細く、未加工(丸いまま)と比べ、今回の 「男柱」は、材が太く、加工されています。調査でわかったその他のことも合せて考えると、つくられた時期は岡田家男柱より新しいことがわかりますが、今の時点で言い切ることはできません。
(伊丹市教育委員会生涯学習部主任)

児島晴海翁の碑
内堀睦夫

一 はじめに
 東野の春日神社の西側を通る旧西宮−池田道わきに、児島晴海翁の碑が二坪ほどの広さで、立江地蔵尊・道標(右妙見)の後ろに設置されている。
 碑の正面に、横書きに「晴海翁」、その下に縦書きに文が刻まれている。
 この「晴海翁」というのは、明治十二年一月からはじまった川辺郡の初代郡長だった児島晴海である。そして、この碑は東野村の人たちによって、明治十四年に建立された。
 はからずも、江戸時代に新田中野村(西野・中野・東野)の庄屋を勤め、当時の戸長を勤めていた中野村西田家の古文書の中から、この碑文の下書きを見つけた。
 撰者は、碑文では「山田」となっているが下書きでは「南郊」となつている。この人は山田南郊である。
 明治六年五月に、新田中野村・鴻池村・荒牧村・荻野村の四か村の戸長・有力者が世話人となって、中野村にある寺子屋の場所に「新野小学校」を設立した。その時に、医師山田龍斎(南郊)を初代の教師に迎えた。
 児島晴海と山田南郊は、晴海の川辺郡長としての教育行政や居住する村の学校創立(双野小学校)などで、親しく交流があっただろう。そして、南郊は新田中野村での識者として碑文の撰者に選ばれたのであろう。
 児島晴海翁碑は、翁が死亡する一年前に建立された日付になっていることが疑問であるが、新田中野村の人たちが翁の徳を讃え、村をあげて碑を建立したことに興味をおぼえ、碑文に従って調査し表したい。

二、児島晴海翁の碑文
 碑文の下書きによって表す。(漢文を解読)
  正七位児嶌晴海翁碑銘日
 正七位児嶌晴海君は、土佐の国山内公の世臣(代々功績のある臣)にして、明治二年兵部省において京都に奉職し、越えて三年大坂城に在勤す。
 君の人となり聞達(出世する)を求めず、忠考に謹む。
 また、経史(経書と歴史書)を博渉(広く学芸につうじる)し、兼ねて詩歌を善くす。
 また、農桑(耕作と養蚕)を好みて、四年春此の昆陽野の芝を相し開墾す。
 省務(役所の仕事)之暇日(休みの日)ごとに、恒に以て夜帰る。竟に八年の居諸(月日)を経て、其の往復の里程(みちのり)、積もりて三千三百里に至ると言う。
 邑民(村の人)常に謂わく、此の野古(むかし)従り、従苑塞の地(けわしい土地)也。
 しかるに今植物蕃殖(繁殖)するは真に邑の幸福也と。
 然後十有二年春、(川辺)郡長に任ぜらる。其の郡治に於けるや躬ら倹素を行って、以て風俗(ならわし)を朴し(養い導く)、学校を興立して、以て人材を養い、道路を開達して、以て運輸を便じ、農桑を談論して、以て生産を殖やし、山林を保護して、以て永遠を利するの類、単身徒歩各所に就いて、民に謀り、一つとして自ら専らとすること無し。
 吏民(人びと)知らず識らず其の徳に化す。
 今ここに東野邑民同心相議し、石に以て勒し、不朽(後世まで永く残る)に垂れんとす。
 明治十有四年 端月(正月)中旬南郊識す。(碑文では)同心相議し石に勒し、以て不朽に垂れんとす。
 明治十四年正月建 山田執之 謹撰

三、碑文の考察
 (1) 土佐の国山内公の世臣にして
 児島家は、山内公の家老佐川邑主深尾家(一万石)の家臣であるから陪臣ともいえる。しかし、山内家と深尾家は一門であり、深尾豊藪が本家を相続して第八代高知山内藩主となっている。その後、嘉永元年(一八四八)豊信(容堂)が深尾家から入って第十五代藩主となっている。だから、撰者は「山内公之世臣」としたと考える。
 児島家は天保二年(一八三一)の分限帳に「児島六兵衛(晴海の父)騎馬・知行八拾石」とな つている。
 晴海は、天保五年二月十日 児島隆通(六兵衛)の長男として生まれた。名は沢山あり範義・熊之助・杢ノ助・求・範左衛門・静一晴海となっている。成人して父の隆通と共に深尾家に任えていたが文久二年(一八六二・二十九歳)近侍(おそばつき)をしていた折、深尾鼎の不興をかい、「慶応時代勤皇家児島範左衛門氏(晴海)入獄あり(温知録)」とある。そして、慶応三年(一八六七)末に赦免されている。
 (2) 明治二年兵部省において京都に奉職し、越えて三年大坂城に在勤する
 明治二年に佐川邑主深尾家が高知へ退去しそれにともなって家臣団が解体され、範義(晴海)の長男範朝(十歳)は七月一日本藩の直臣に召しだされ、高知藩新御留守居組に就任した。
 範義(晴海・三十六歳)は、解体後すぐに佐川邑を出立し、明治二年八月十日に兵部省に入り京都に就任した。十一月十日に兵部省権少録(書記官か)に任ぜられている。
 明治三年に大阪に在勤し、四年に兵部省少録に任ぜられている。その後、大阪鎮台十等出仕している。明治六年陸軍大尉、歩兵科二等。明治七年に陸軍より正七位に叙せられる。
 明治八年陸軍会計軍吏、大阪鎮台病院課出仕している。明治十一年十二月十日「依願免本官陸軍会計軍吏児島晴海」(陸軍省日誌)
 以上、児島晴海が明治政府によって創られた草創期の軍隊で活躍したことがうかがえる。
 (3) 明治四年春 此の昆陽野芝を相し、開墾する
 児島晴海は、兵部省大阪出張所で兵役につきながら、明治四年から十一年までの八年間かかって、現在の大野地域を開発した。
 開墾した土地は、東野春日神社西側一帯約七町歩(七ヘクタール)で昆陽野芝地と言われていた。
 そもそも、日本の最大樹木生産地は兵庫県山本・埼玉県安行・福岡県田主丸と言われている。兵庫県は山本で代表されているが、宝塚・伊丹・川西から大阪府池田にかけて樹木生産が盛んである。
 明治に入って、東野村では園芸に従事する農家が多くなり、明治十年の「諸商売並びに諸職鑑札控え帳」によると、二十七戸のうち二十六戸が植木職の鑑札を受けている。村中で樹木生産に従事していた。
 晴海は、これに目をつけ未開発の芝野を開拓し、樹木生産の発展をはかろうとしたのであろう。
 (4) 十有二年春 郡長に任ぜられる
 明治十二年一月十日 児島晴海は初代川辺郡長に任命された。
 現伊丹市域の町村は川辺郡の管轄に属し、川辺郡役所は伊丹町に設置された。そして、官選 の郡長が置かれた。
 川辺郡の地域は、現在の猪名川町(六瀬)川西市(東谷・中谷・多田・川西)・宝塚市(西谷・長尾・小浜)・伊丹市(神津・伊丹稲野)・尼崎市(園田・小田・尼崎)の広い範囲であった。
 晴海は、三年五ケ月在職し、明治十五年六月九日死亡退職した。(四十八歳)
 (5) 学校を輿立して、以て人材を養い
 晴海が川辺郡長に就任した明治十二年に、これまでの学制を改め教育令が制定され、従来の学区が廃止され、それにかわって町村もしくは数町村の連合が小学校を設置することになった。
 川辺郡の町村では、分離したり、合併して学校を新設・新築している。
 伊丹市域でも、致道(新田中野)・参野(大野)・脩正(野間)・愛真(南野)・摂陽(荒牧)・大鹿(大鹿)・蘊徳(寺本)の校名がみられる。
 晴海は、川辺郡長になった年から教育行政に努力したことがうかがえる。
 自ら開発した土地を小学校新設・新築に提供している。明治十二年十一月東野村・大野村で双野小学校をつくり、翌十三年に荻野村が加わり参野小学校となった。そして、明治十八年まで教育活動が行われた。
 この場所は、昭和五十一年に伊丹市立荻野幼稚園として再び教育の場としてよみがえつている。
 (6) 農桑を談論して、以て生産を殖やし
 明治になって社会の様子がかわり、欧米化していった。
 東野村や付近の村々は、「欧米では、食後に果物を食べる習慣があることを知り、日本の人びともそれに習うようになるだろう」といち早く気づいて、明治九年から果樹苗づくりが始まった。晴海はこの時村人に示唆を与えたのであろう。
 日本の各地で改良・発見された果樹の苗を東野村や大野村など付近の村で生産し、各地へ送られた。
 『明治三十八年の東野村および付近村落で作っていた苗木は、当時の「苗木販売平均一覧表」によれば、柑橘(九十万本)、挑類(七十万本)、梨(五十万本)、苹果(りんご十五万本)、梅(七万本)、柿(四万本)、葡萄(八万本)、枇杷(一万本)などの記録が残っている。(忘れ残りの記・東野の久保武茂著)』とある。

四、おわりに
 大野地域の道端で町の人たちにあまり見向きもされず、ひつそりと立つ児島晴海翁の碑。
 碑文の最後の行には「今ここに東野邑民同心相議し、石に勒して以て不朽に垂れんとす」と ある。
 東野村の人たちは、児島晴海が村のために行った功績を讃え、石に刻んで碑を設置したのである。
 先人の残した地域の歴史に、多くの人が関心を持ち、ひっそりと立つ石碑にも目を向けていただきたいと思う。
(伊丹市文化財保存協会副会長)

黒田官兵衛孝高の有岡城幽閉
豊田 正義

○織田信長の播磨への出陣
 織田信長は長期化した石山合戦の途中、次に中国平定をにらみ播磨へ羽柴秀吉を大将に軍を進めたのが天正五年(一五七七)十月のことです。その先導役を御着城家老の黒田官兵衛がつとめていました。播磨の国衆もほぼ信長につくなかで毛利領に接する西播磨の信長支配下の上月城では毛利に数次にわたり攻められ尼子氏の家臣山中鹿之介らが守っていました。荒木村重も信長軍の副将として加わっていました。
 翌天正六年順風であった信長陣営に異変が発生します。二月東播磨八郡を束ねる三木城別所長治とその属城が信長陣営から離脱し信長に謀反をおこしました。信長軍は上月城の防御を放棄し、三木城の包囲へと作戦を変更せざるを得なくなりました。そして、秋になると荒木村重も三木城の布陣から有岡城に帰陣し織田信長に反旗を翻えしました。信長の天下布武が深刻な事態になり、慌てた信長は荒木村重の説得に重臣の羽柴秀吉、明智光秀らを行かせますが成功しませんでした。
 また、同時期に黒田官兵衛が属する御着城主小寺政職も信長に謀反をおこし、家老の黒田官兵衛は足元の梯子を外されるという複雑な立場においやられました。官兵衛は御着城の枝城である姫路城に居住しており、この事態を父職隆、叔父小寺休夢斎と相談し御着城に登城し城主の説得にあたることになります。

○黒田官兵衛の有岡城幽閉
 『黒田家譜』によると御着城中では官兵衛の動向にたいして険悪な空気になっていました。官兵衛は城主にたいして再び織田信長につくよう翻意を進言します。小寺政職は『荒木村重に説得されてのこと、わしの一存では決められないのだ。伊丹に行って荒木を説得してくれ、荒木を再び信長につければわしもそうする』と弁明し官兵衛を伊丹に向かわせました。実ほ小寺政職は前もって 『官兵衛は城主を無視して勝手に動いて困る、そちらに着いたら殺してくれ』と使いの者を送っていたと言われています。
 天正六年十月未有岡城を訪れた黒田官兵衛は有岡城本丸内の牢に幽閉されました。
 荒木村重は御着城主小寺政職の依頼を実行せずに何故黒田官兵衛を生かしたのか、官兵衛の伝記物ではよく二人がキリシタン同志であったが故に殺さなかったと書かれていますが少し事実が違うようです。村重は配下の与力である高山右近の高槻城下での宗教活動など容認していましたがキリシタンではなかったのです。一方官兵衛もキリシタンに受洗したのは有岡城から救出されてから四年後のことです。
 実は二人とも天正元年頃からの知り合いの仲であったようです。村重は信長の指示で小寺政職、龍野城主赤松広秀ら播磨の諸城主から人質を徹し、天神山城に兵糧米を入れるなど大きな働きをしていたことからもうかがえます。(伊丹市史)
 荒木村重は摂津一職支配者であり、また信長からの播磨への伝達係でもあったのです。そこで官兵衛は、積極的に行動しない城主の代役として御着城の家老ながら信長軍の先導役をつとめていました。そんな関係で二人の交流は天正五年(一五七七)羽柴秀吉が播磨に入ってからも続いていたといえます。
 荒木村重は有岡城に説得に訪れたかっての仲間黒田官兵衛を殺さずに有岡城内で幽閉するという選択をしました。

○黒田官兵衛の幽閉場所、時期、牢屋の形態
 官兵衛は天正六年(一五七八)十月下旬から翌年十一月十九日救出されるまでの一年余を有岡城本丸(主郭部縄張り東西一五〇m南北一〇〇m)の表通りから外れた場所に牢屋があったものと推定されます。官兵衛の数多くの出版物では救出時期が天正七年(一五七九)十月十五日有岡城惣構え内の侍町炎上の最中に助けだされたという描写が多いようです。しかし信長公記をよく読んでみると有岡城攻めの天正七年十月十五日の条では『町と城の問に侍町あり、是れをば火を懸け、生が城になされたり』とあり堀に囲まれた牢のある本丸はなお抵抗を続けていたのです。そのことは『黒田家譜』でも十一月救出となっており、三木城攻めの総大将羽柴秀吉が天正七年十月二十八日付で出した小寺休夢斎宛の文書からも十一月救出が確認されます。
 つぎに牢の形態がどうであったのか、『黒田家譜』ではくわしく書かれていません。
 『陰徳太平記』では『秀吉は・・・小寺官兵衛を遣わし、種々語らはせられけるに、村重此度は・・・孝高を捕へて返さず、一間の中に押籠め置かれければ有岡落城の時ぞ立ちかえられにける』となっています。地元伊丹でも地下牢、土牢、石牢、水牢などの伝承があります。牢は想像の域をでませんが一戸建の建造物ではないでしょうか。
 有岡城本丸は天正七年(一五七九)十一月十九日ついに落城、その後名も前の伊丹城にもどり織田信長の重臣池田恒興の嫡男池田之助が天正八年から十一年まで在城、それ以降有岡城惣構えは伊丹郷町といわれ幕府直轄地を経て近衛家領地が明治維新まで続き、時代の経過とともに城跡も開発の対象となり本丸の主郭部は往時の原型をとどめない形で現在に至っています。黒田家譜で『栗山善助ひそかに池を泳ぎ渡り、牢に近づき』と書かれた牢が池で囲まれていたとされる場所がはやくから消失し、牢の場所の特定はあらたな文書、絵図などがでない限り困難になつています。

○幽閉中の黒田官兵衛を支えた家臣、武将、町人たち
 黒田官兵衛が伊丹に来る前から有岡城には小寺政職の二男が人質に入っており、その付人として官兵衛の家臣村田兵助の叔母が来ており、官兵衛の衣服の洗濯や縫い整えなどされて身のまわりの衛生状態は保たれていたようです。
 官兵衛が伊丹に入った直後から、後に黒田二十四騎に数えられる母里大兵衛、栗山善助、井上九郎右衛門が有岡城惣構え内の町屋で商人になりすまし、救出の機会をうかがっていました。栗山幸助は銀屋の店を拠点に活動、夜に本丸の主郭部に入り、密かに池を渡り牢に近づき官兵衛に播州のことなどを報告していました。母里太兵衛は文禄の役後の伏見城福島政則邸での酒宴で大杯の酒を飲みほし、日本号の槍をせしめた話は黒田節のモデルとしてつとに有名です。
 黒田官兵衛の幽閉期間中で一番に親身に世話したのが荒木村重の命をうけて牢番をつとめた加藤又左衛門です。又左衛門は元伊丹氏の一族で、荒木村重が伊丹城に入ってから家臣として支えたのが五十四歳の時です。人物家でよく官兵衛の面倒をみました。後に官兵衛に引取られた又左衛門二男の黒田三左衛門は福岡藩家老となり大成、その子孫も一万六千石の高禄で幕末まで家老をつとめています。歴代の福岡藩主がいかに加藤氏(三奈木黒田家)を厚遇したか歴史が物語っています。
 その家系の黒田一義系譜によれば初代黒田三左衛門の項で父又左衛門が官兵衛の世話役として『夫婦慇懃に接待し、陰に衣食を給し善く之を視る』と記されています。黒田家諸で官兵衛は、『其の情ふかき事を感じて、又左衛門に語りて日く、我若恙して本国に帰りなば、貴方の男子を一人我が所に過すべし、松寿(黒田長政)が弟のごとく発育すべしと堅く約し給ひける』その養子に迎えられた二男が黒田三左衛門で藩主と区別して三奈木黒田氏と呼ばれました。文武に優れた家臣として黒田長政に支えました。その名声は江戸幕府にも伝わり島原の乱では知恵伊豆こと老中松平信綱に招かれ軍議にも加わったほどです。

○荒木村重の有岡城龍城一年、黒田官兵衛の救出
 荒木村重が有岡城に立籠もり、信長に謀反をおこしたのが天正六年(一五七八)十月未、信長は重臣を有岡城に行かせますが村重説得に失敗します。次に打った手が村重の孤立化をねらった本願寺・毛利との和睦を朝廷に申請しますが、途中で状況が好転し取り下げられました。それは十一月に村重と一緒に決起した高槻城高山右近、茨城城中川清秀などを信長が調略して村重との離反に成功したからです。
 信長は十一月中旬になると京から軍をいっきに伊丹近郊に進めて、十二月八日夕刻より深夜にかけて有岡城惣構えを数万の大軍で包囲して総攻撃をかけますが惣構え内に突入できませんでした。家臣万見仙千代が討死、兵数千人を失っています。信長は戦線を拡大していることもあり、すぐに短期決戦から有岡城を四方から包囲する持久戦に戦術を転換しました。
 黒田官兵衛は有岡城の牢屋で、家臣の栗山善助らは町屋内でじっと情況をうかがっていました。戦況は信長軍の厳しい包囲網のなかで数度の小競り合いの戦いがあったものゝ膠着状態が長く続いていました。信長は有岡城の兵糧が尽きるのと外部との遮断によるあせりと士気の低下をねらっていました。官兵衛は長期化した幽閉生活にこの先どうなるのであろうかと不安にかられていました。
 そうした中で牢の格子から見える藤の花が生への希望をあたえたと福岡藩家臣と言われる作者不詳の故郷物語では記されています。
 村重は毛利、石山本願寺と手を結びましたが、いっこうに援軍が来なく時が過ぎ去るなかで城内は焦りと苛立ちが出始めていました。家老らが一案として殿が直々に尼崎に出向いて援軍をと申しのべたことが『陰徳太平記』に記されています。おも苦しい空気のなかで村重は、九月二日深夜に家臣数人を召し連れて尼崎城に移りました。しかし、西国毛利ではたいへんな事態になっており援軍を送れる状況ではなかったのです。その一つが大坂湾の海上権を信長側の九鬼水軍におさえられ村上水軍の航海がさえぎられ、もう一方では備前宇喜多直家が信長側に寝返るなど毛利のひざ元で状況が悪化していたのです。
 信長軍は村重の尼崎への移動を直ぐに察知、九月十二日織田信忠指揮の下に有岡城包囲網の 半分の大軍を尼崎七松の近々に砦を構築して尼崎城が身動きできないように牽制しています。それから間もなく信長軍の昆陽野砦滝川一益が有岡城上臈塚砦の者を調略して十月十五日夜にやすやすと有岡城内の侍町に進攻し、火攻めにして落城に等しい実質的な勝利をおさめました。しかし、堀と土塁で囲まれた本丸はなお抵抗を示していました。信長は本丸をいっきに攻めずに尼崎城や花熊城を無血で攻め落とす戦術があり無理を避けたふしがあります。
 本丸が最終降伏したのが十一月十九日です。この日黒田官兵衛は栗山善助らによって助けだされました。一年余りの牢屋での幽閉で足が弱り歩行もまゝならなかったと言われています。加藤又左衛門らの援助で有岡城の近くで休息、そして有馬池の坊左橘右衛門の家で療養して播磨へと帰っていきました。
 その後、黒田官兵衛は備中高松城水攻めの最中、荒木村重は蛮州尾道の亡命先で天正十年六月二日の本能寺の変を知ることとなり新たな転換期を迎えました。黒田官兵衛は羽柴秀吉の懐刀としてますます名参謀としての道を進み、荒木村重は武士をすてたまゝ茶人として堺で天正十四年二五八六)五月に一生を終えました。
(伊丹市文化財保存協会理事)

伊丹郷町の防空壕跡
〜発掘鯛査で発見された戦争遺跡〜
小長谷 正治

 戦争遺跡という聞きなれない言葉があります。近年、考古学の世界で用いられるようになった学術用語です。考古学という学問は地中に埋もれた建物跡などの遺構と、使用されていた陶磁器などの遺物を対象に研究するものですが、戦争遺跡は旧軍司令部の建物など現状では埋もれていない(別の用途で使用が続いている)ものも含まれます。戦争遺跡の対象となるものは、陸軍省・師団司令部や連隊本部などの「政治・軍事関係」、要塞・高射砲陣地・軍港などの「軍事・防衛関係」、造兵廠・軍需工場などの「生産関係」、沖縄諸島・硫黄島などの 「戦闘地・戦場関係」、そして防空壕・捕虜収容所などの「居住地関係」などに分類整理されています。この他にも陸海軍墓地や忠魂碑、軍用道路など様々なものがあります(「しらべる戦争遺跡の事典」(十菱駿武・菊池実編)より)。
 今年は戦後六〇年の節目の年にあたり、当博物館では企画展「戦争と伊丹の人びと」を開催いたしますが、それに関係してこれまでに発掘調査した防空壕跡を展示の中で取り上げてみたいと思っています。防空壕は先の分類では「居住地関係」にあたります。
 伊丹郷町の発掘調査では、古くは戦国時代の有岡城跡と江戸時代の伊丹郷町遺跡が発見され ますが、発掘調査を行ってみますと、さらに新しい近現代の遺跡も目にすることができます。その一つが第二次世界大戦中に造られた防空壕跡です。
 宮ノ前二丁目で行った第五十四次調査のことでしたが、幅一m、長さ二m、深さが地表下一・五mほどで、一方に階段が取り付いた長方形の穴が見つかりました。出土した遺物から昭和、それも戦時中頃の遺構とわかりましたが、何に使われていたものか全く検討もつかずにいたところ、塀越しにこの様子をご覧になっていた近所の方が「防空壕です」と教えてくれました。天井はありません。仮に板などを天井にして土を被せたとして、私が入るとすれば足腰を曲げた大変窮屈な状態になると考えられました。防空壕は斜面などを利用した横穴だと思っていた私は随分と驚きました。しかも、その場所は密集した屋敷地、焼夷弾など落とされて火災となればどうしたものだろうと。
 その後、同様の防空壕跡はあちこちの敷地から発見されるようになり、中には旧石橋家住宅のように住居の床下に設けられたものもあることが分かってきました。これまでに発見した防空壕跡の数は相当なもので、人が入る小規模なものから、家具など貸重な什器類を納める大型までありました。
 ところで、当時の防空壕にはお手本となるべきものがあったのでしょうか。戦時体験をお持ちの方は記憶にあるかもしれませんが、調べてみますと昭和十二年の「防空法」の施行以来、航空機の発達により予想される空襲に対応するため、同十五年には「国民防空指導に関する指針」が公布され、さらに同十七年のドーリットルの東京初空襲により、ますます防空意識が高まり、国民の被害を防止するための様々な施策が考えられるようになりました。防空演習も盛んに行われ、「主婦の友」には図入りで消火の方法や爆風から身を守る方法などが紹介されてもいました。
 左図は、情報局編集の「寫眞週報」(昭和十八年八月四日号)掲載の待避所(防空壕)を図説したものです。この冊子は一般国民向けに刊行されていましたので、この図を参考に防空壕を掘った方も多かったのではないでしょうか。解説には、「木造住宅に設けるものは、出易い床下の地下か、屋外の地下がよい。やむを得ないときは、効力は少いが、地上か床上に造る」(原文)とあります。屋外用では、天井部に畳を被せるように描かれてありますので、とても直撃弾に対応するものではなく、爆風や弾片から身を守る目的であったと考えられます。さらに、「待避所は老人、子供等の避難の場所にもなるが、家族の多い家庭では、一ケ所に大勢集ることは萬一の場合に被害が大きくなるから、一ケ所五人程度にし、且つなるべく分散して造ることが望ましい」(原文)とあることから、敷地内に複数の防空壕が造られた場合もあったことでしょう。
 伊丹郷町から発掘された防空壕跡も、構造的によく似ていますので、これらを参考にして造られ、天井部にはあまり丈夫なものは被せていなかったのでしょう。
 伊丹市域への空襲被害は、近隣地域に比べ小さいものでしたが、それでも昭和二十年六月十五日には東洋紡績伊丹工場(現在のダイヤモンドシティーあたり)が空襲によって全焼し、高畑から新伊丹、昆陽の民家まで被害があったといいます。七月以降には、飛行場への攻撃や艦載機などの機銃掃射もあったといいます。最終的に伊丹市域の被害は、死傷者二十八名(内死者六名)、建物被害は九五棟に及んでいます(市史第三巻)。
 伊丹郷町の防空壕は、殆どのものは終戦後すぐに埋め戻され、その存在すら忘れ去られました。昭和六年の満州事変から終戦までの十五年間、関係国や我が国に甚大な被害をもたらした戦争、防空壕跡はその記憶を蘇らせる遺構でもあります。僅か数年で人々の前から姿を消した防空壕は最も身近な戦争遺跡と言えるのではないでしょうか。
(伊丹市立博物館長)