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目次
出土品の謎〜鯱(しゃち)瓦を追え〜………1
おコメをつくり始めた弥生人の技〜岩屋追跡の発掘調査成果から〜………2〜7
有岡城跡発見の火災痕跡…………………8〜10
市内の古式道標………‥……‥…………‥11〜12
平成18年度博物館もよおし案内………………12
事業の回顧・編集後記……………………13〜16

出土品の謎
〜鯱(しゃち)瓦を追え〜
中畔 明日香

 現在、小西酒造「富士山蔵」跡の発掘調査(平成9〜11年度/有岡城跡・伊丹郷町追跡第203・217・231次調査)の報告書を刊行するため、伊丹市埋蔵文化財口酒井整理事務所にて、整理作業を行っています。整理作業は、外(現場)での調査以上に、時間も労力も必要です。出土した遺物や、調査中の記録(図面や写真)をもとに、たくさんの疑問点を解き、歴史を復元していかなければいけません。この調査で、伊丹氏に関係する庭園遺構(池)が確認されたことや、「鬼瓦」(写真1)・「樽」(瓦製のタイル)を含む大量の瓦が出土したことは、以前報告しました(「絲海」第24号)。
 この3回の調査では、40×60×15cmの大きさのコンテナ箱に50箱以上にもなる大量の瓦が出土しました。これらの瓦は、建物の軒先を飾る「軒平瓦」・「軒丸瓦」の文様や技法から、室町時代(15世紀後半)に焼かれたものと考えられます。その時期に、瓦葺きの屋根を持ち、床に「磚」を敷いた建物といえば寺院に関連する建物です。発掘調査では伽藍(建物)跡は見つかっておらず、また、この周辺で寺院に関する記録は残っていません。そのため、宗派なども不明です。いぜんとして謎の寺院瓦なのです。
 庭園遺構(池)から出土した瓦の中にはヒレ・ウロコの表現をもつ「鯱」と考えられる瓦もあります(写真2)。残りが悪く、これ以上の形はわかりませんが、帽は50cmを超える大きなものです。「鯱」は、大棟(屋根の最上部)の両脇を飾る瓦で、古く(鎌倉時代まで)は「鵄尾」が大棟に飾られました。織田信長が築城した安土城に、城郭建築として初めて飾られたといわれ、名古屋城の金鯱はあまりに有名です。しかし、城郭建築以前の寺院を飾る「鯱」となると、現在建物自体が残存する例がほとんどなく、発掘調査で出土することもないため、この伊丹で出土した「鯱」との類例を探していますが、現在のところ見つかっていません。会員の皆様、各地の歴史ある寺院に行かれた折には、仏様だけでなく、是非、屋根にも注目し、「鯱」を見つけて下さい。
(伊丹市教育委員会生涯学習部主任)

おコメをつくり始めた弥生人の技
−岩屋遺跡の発掘調査成果から−
 上田 健太郎

はじめに
 今から2400年前(弥生時代前期)につくられた水田に水を引くための施設(堰と用水路)が、岩屋逝跡で発見されました。時は弥生時代の始め、おコメづくりが韓国からわが国に伝わってきたばかりの頃です。施設の骨組みはクリやクヌギ、コナラといった木の幹や枝。まさに文字通り、土と木だけを使った土木工事です。共同で水田を開墾して水を引くという、日本の原風景が誕生した頃の様子を紹介しましょう。
 岩屋遺跡の発掘調査現場は、大阪国際空港(通称伊丹空港)の滑走路のすぐ脇にあります。夏の暑いときも冬の寒いときにも離発着する飛行機の轟音を耳にしながらの作業で、時折ポケモンジェットを見かけては気が和んだりもしたものです。発掘調査に先駆けて行われた確認調査(試し掘り調査)の結果では、どうも杭列が出てくるらしい、ということはわかっていました。いざ全体を掘り出してみると、次々と出るわ出るわで…全体で1,000本近くもの木材が出てきました。斧やかんなといった刃物にはまだ石器を利用していた時代に、よくもこれだけの木を伐ったり加工したりしたものです。おまけに杭列が埋まった地層から一緒に出てきた土器を見たとき、全身に震えが襲いました。弥生時代でも特に古い土器です。時期の古さ、技術水準の高さ、それに加えて残り具合のよさと、全国でも数少ない大発見だったのです。

岩屋追跡の発見と伊丹空港の下に眠る遺跡
 岩屋遺跡の発見は昭和42年、大阪国際空港の拡張工事に端を発します。それまで昔の岩屋集落があった場所(岩屋旧集落遺跡、図1)から、近世の土器を中心に弥生時代から古墳時代の土器も発見されたのです。
 実は戦時中に大阪国際空港の前身の大阪第2飛行場造成時(昭和12〜13年)にも、敷地内北側にあたる当時の神津村の中村から銅鐸が出土したり、同じ神津村の小阪田(大阪空港A遺跡)から弥生土器が発見されています。近年、阪神高速池田線が空港より北側に延伸した際に発掘調査が行われた小阪田遺跡(大阪側にも遺跡は続いていますが、地名が異なるため豊島南遺跡と呼んでいます)とともに一大集落となる可能性が出てきました。

川から水を引いた弥生人
 堰は、川幅が10〜17mある自然の川(SR203)の中に、2ケ所築かれていました。川の流れは北西から蛇行しながら南に流れ、調査区の東側に抜けています。
 堰1は川幅が10mに狭まったところに築かれ、用水路SD201(帽3・3m、深さ1・3m)に水をひいています。この場所は蛇行する川の外側(攻撃斜面側)から内側(滑走斜面側)に変わり始める部分にあたり、勢いに乗った水流を用水路に効率よく、しかも堰への負担を抑えて引くことができます。
 堰1は、横木を持つ本体施設(写真1中央)と、追加して2列設けられた付属施設(写真1手前)にわかれます。当初本体施設が築かれた後、前面が洪水で埋まり、そこに運ばれた土砂の上から新しく付属施設を築いています。各施設とも川の中の瀬のような高まりを利用して土手状にに築かれ、流れを完全にふさいで、多量の流水を用水路SD201に引いています。この堰1だけでも、400本近い木材が使われています。
 堰1の本体施設は流れの勢いを一手に受けるために、土手が崩されないよう骨組みとなる杭が入念に打ち込まれて強固な構造になっています。横木には特別に、長さ6・8m、直径15cmのクスノキを用いています。横木は直立杭や斜め杭で固定するほか、Y字状に二股に分かれたヤナギの支保材で横木を挟み込んで、後ろから支えています。このように後ろから支える木材(支保材)の末端にはほぞの穴や決りが設けられ、そこにずれ止めの杭が打たれています(写真2)。流水の勢いから堰を支えるために杭を打って固定しており、同様の例は大阪府東大阪市・八尾市池島・福万寺追跡(中期前半)や和歌山県南部町徳蔵遺跡群(前期後半)、福岡市早良区田村遺跡 (中期後半)、埼玉県熊谷市北島遺跡(中期後半)において見られます。さらに杭の前面には粘土や植物(草や樹皮など)で隙間を目張りしている様子も見られます。
 川の最大幅となるところに、堰2と堰4が築かれています。2つの堰の間は後世にかき乱されていましたが、本来は総延長19mにも及ぶ一つの堰であったと考えられます。SR206に水をひいていますが、堰1が流れをさえぎっているのに対して、堰2・堰4は杭どうしの間を水流が通り抜けます(写真3)。下流で堰1から用水路SD201に引く流水を確保する必要があったのです。
 川が蛇行して流れの勢いが強まる部分(攻撃斜面)の岸では、全長16mにわたって護岸施設が築かれています。この部分一帯は、もともと古い川が流れていたのが埋まったところで、激しい水流で強度の弱い岸が映られて氾濫したり、流れが変わってしまったりするのを防ぐために築かれたのでしょう。
 護岸施設も洪水で埋まっており、前面に新しく作り変えています。洪水の前につくられた護岸施設A列では、横木をすえて川の内側に向けて直立杭を密に打ち並べています。埋まった旧河川の深い部分にあたるところでは、1・2〜1・5mと特に長めの杭(周辺では70〜80cm)を使っています。その部分ではさらに、草本の束で杭の前面から水底までを覆っていました(写真4)。また、この付近では、横木は両側から直立杭で固定するだけでなく、堪1同様後ろからY字状に二股に分かれた支保材で支えています。
 実際には、これらの施設すべてが、はじめから同時に作られたわけではないようです。各施設の木杭に含まれている放射性炭素同位体の量を測定することで施設の構築された年代がわかります。各施設の時期差と、川の流れの変遷と施設の機能との関係から、構築された順番を復元してみたのが図2の変遷イメージです。
 まず、(1)堰1の本体施設を設け、SD201を開削して水を引き、同じ頃に護岸施設A列も築かれます。(2)洪水によって堰1本体施設や護岸施設A列が埋まった後に、それぞれの前面に堰1付属施設や護岸施設B列が追加されます。最後に(3)SR206に水を引くために堰2・堰4が設けられて、すべての施設が出揃うのです。

岩屋ムラの暮らしと景観
 堰をつくつた人たちの暮らしていた場所や、水田はどこにあったのでしょうか。
 堰1から南東350mの地点でも発掘調査が行われており、弥生時代前期頃の地層から水田土壌や畦畔(あぜ)が発見されました。この付近は小さな谷状のくぼ地にあたり、湿地化していたために水田に適していたのでしょう。
 この水田の作られたくぼ地の東西両側には、0.8〜1.2mほどのわずかな高まりがあります。付近ではまだ住居跡は発見されていませんが、一般的に洪水を避けるために周囲より少なくとも50cmは高い場所を選んで作られます。東側の高まりにあたる岩屋旧集落遺跡では弥生時代中期の土器が出土していますが、弥生時代前期の未発見の遺跡も眠っているのかもしれません。
 このように土地の10cm単位のわずかな高低差を読み取ることで、弥生人の集落や生産域の景観を復元することができるのです。
 ところで、遺跡から出土して歴史を語ってくれるのは、土器や石器ばかりではありません。岩屋避跡の川の中に溜まった土には、木の実(種)や葉、ほかにも肉眼では見えませんが花粉や微生物の化石もたくさん含まれていました。
 大きな種などを探すにはふるいを使って、土を水で洗い流します。オニグルミをはじめ、クリやトチの実、イチイガシなどのどんぐり、中には紅葉したままの葉も含まれていました。珍しいものでは、クリの仲間の花やイガが、現在のものと変わらない様子で残っていました。種や実からは、当時の人々が何を食べていたのかを知ることができます。
 花粉を調べるには、土を水で溶かして薬品で処理した後、遠心分離機を用いて比重の差を利用して観察しやすいように集めてから、顕微鏡で覗きながら種類や量を調べます。当時どのような植物が存在したかが明らかになり、植物相(植物の種類の組み合わせ)を現代の植生と比べることによって当時の気候を推定することもできます。また、植物相の急激な変化から、人間の手によって自然環境に影響が及んだこともわかるのです。
 岩屋遺跡から出土した種実や花粉をもとに当時の周辺環境における植生を復元すると、縄文時代から弥生時代の始め頃にかけてはカシ、シイを中心とする常緑広葉樹林が主体でした。ところが弥生時代前期の堰や護岸施設を構成する木材には落葉広葉樹のコナラやクヌギが多用されています。さらに、花粉分析の結果では弥生時代中期になると、コナラなどの落葉ナラ類や水田雑草の花粉の増加が目立ちます。人間が耕地を開拓し、使い勝手のよい樹種を偏重していく過程が植生の変化に反映した可能性が読み取れるのです。人間が森林を伐採し開拓したり、木を利用するうちに自然に手を加え、環境を変化させていたことを物語る証拠といえるでしょう。

おわりに
 岩屋遺跡の堰は調査後に埋め戻され、現在も地下に眠っています。本来遺跡は、後世に伝えるために残していくものであり、発掘調査を行うのは、開発によりやむを得ず消滅していく遺跡に対して、記録をとどめておく作業なのです。
 岩屋遺跡の堰は、開発の波から保存への道のりを勝ち取った数少ない例です。開発によって犠牲となつた歴史文化遺産の代償としての発掘調査成果が、現代人がより豊かに暮らしていくためのヒントとして活かされることを願ってやみません。
(兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所)

有岡城跡発見の火災痕跡
細川 佳子

有岡城跡の発掘調査
 有岡城跡の発掘調査は、昭和五十年(一九七五)から国鉄(現在のJR)伊丹駅付近、城の主郭部を中心に始められ、堀や土塁、建物跡などが発見されました。
 有岡城跡の発掘調査に初めて私が参加したのは昭和六十年、大手前女子大学(現在の大手前大学)の藤井直正先生が担当された第十七次調査です。そこは有岡城惣構えの北東端に当たり、「北の口」という地名が残っているところです。翌年からのJR伊丹駅前市街地再開発事業や宮ノ前地区市街地再開発事業に伴う発掘調査では、大学の調査委員会に調査員として加わりました。その後、伊丹市教育委員会に入り、発掘調査を続けてきました。
 平成七年の阪神・淡路大震災以降、震災復興事業や共同住宅建設などに伴う発掘調査が数多く行われ、有岡城跡の様相がしだいに明らかになつてきました。

有岡城の概略
 有岡城は天正二年(一五七四)、織田信長の家臣の荒木村重がそれまで伊丹氏の居城であった伊丹城に入城し、「有岡城」と改名しました。村重はより堅固な城にするため、城の主郭部だけでなく侍町や町屋を含む城下町全体を堀と土塁で囲む惣構え構造(図1)としました。南北1・7km、東西0・8kmの広大な範囲です。主郭部は土塁や堀に囲まれ、その西側に侍町、さらに大溝筋の西側に町屋があります。惣構えの要所を岸の砦、上臈塚砦、鵯塚砦が守りました。
 最近の発掘調査で大溝筋や町屋側の堀が発見されました。両方とも南北方向に延びる逆台形の箱堀で、規模は大溝筋が幅約6m、深さ約3m、町屋側の堀が幅3・4〜4・5m、深さ1・35〜1・7mで、大溝筋の方が大規模です。
 村重は信長に従って各地を転戦しましたが、天正六年、信長に反旗を翻し、有岡城は信長の大軍に包囲され、一年余りの激しい攻防の末に落城し、その後、廃城となりました。
 侍町は焼き払われたので、城下町のうち焼け残った町屋側から町は発展し、伊丹村を中心に在郷町(伊丹郷町)が形成されました。領主である近衛家の保護もあり、伊丹郷町は江戸積(江戸へ送る)酒造業で賑わいをみせ、人口も増加し、天保七年(一八三六)には一万人にものぼりました。

有岡城の火災痕跡
 発掘調査で地面を掘り下げていくと、あたり一面に真っ赤に焼けた面と出合います。その中には炭や焼けた瓦などが埋もれていて火災痕跡ということがわかります。
 有岡城は伊丹城の頃より何度か戦乱に巻き込まれ火災にあっています。主郭部では伊丹城期の焼けた層が発見され、有岡城期では信長の焼き討ちで侍町一帯に焼け跡が広がっています。また、江戸時代の伊丹郷町期にも元禄の大火をはじめ、数々の火災痕跡が発見されています。
 こうした火災痕跡から出土するものは、火災の時点よりも新しいものは発見されないで、限定された時期でパックされ、特定の時期の生活様式を知る上で貴重なものです。火災は記録にも残っているものもあって、実年代を決定できる可能性があり重要な鍵層となります。火災痕跡としては焼土層と焼土処理土坑があります。ここでは焼土処理土坑についてお話したいと思います。

焼土処理土杭
 焼土処理土坑は火災の後始末をするために掘られた土坑で、焼土や炭のほか二次的に焼成(火災の時の焼成)を受けた瓦や陶磁器などが埋まっています。その多くは長方形をしており特徴的です。伊丹郷町では屋敷地の表側、道路に面した方にある場合が多いのです。規模は平均すると長さ約3m、幅約2m、深さ約55cmです。狭い敷地の場合は建物の方向と一致した小規模な長方形の土坑が一基単独であり、酒蔵のように広い敷地の場合は数基並んだ状態で検出されます。

第六十六次調査の焼土処理土杭
 第六十六次調査は本町通りと昆陽口通りとが交差する北西側の地点で、江戸時代前期より酒蔵が建っていたところです。
 発掘調査では一面に焼土の面が広がっていて、この面を少しずつ掘り下げていくと、焼土と炭が多量に入った土坑が東西に並んで四基検出されました。これが写真1の中央にある焼土処理土坑です。底の面は平らになっています。規模は奥側が大きく長さ2・9m、幅2・6m、深さ76cm、そのほかの三基は、長さ2〜2・85m、幅1m前後、深さ50〜65cmです。これらは屋敷地内で建て替えられた建物の床下に掘られていました。出土遺物から元禄時代に起きた大火の後に掘られた土坑と考えられます。瓦を多産に含むもの、瓦を含まないもの、下層には瓦を含むが上層は瓦を含まないものの三例あります。

元禄の大火
 江戸時代後期の郷土史家、古野将盈が著した「有岡庄年代秘記」(註1)によると、伊丹郷町では元禄時代に記録に残る大火が三回ありました。元禄元年(一六八八)十二月二十四日 甕数百六十軒焼失、元禄十二年十一月四日 寺院六ケ寺、酒蔵十六軒そのほか数知れず、元禄十五年三月三日 甕数四百三十九軒焼失とあります。このように元禄時代に大火が続けて起こり、この時代の焼土処理土坑は伊丹郷町の各所で発見されています。そこからは煉瓦のように真っ赤に焼けた瓦などが出土し、火事の凄まじさを物語っています。

防火について
 伊丹郷町では元禄時代に続けて大火があり、元禄十五年の大火の後、『有岡庄年代秘記』によると定火消しが置かれたとあります。また町の有力な酒造家の一人である八尾(紙屋)八左衛門が享保十五年(一七三〇)から享保十九年まで書いた『八尾八左衛門日記』(註2)にも防火の様子が見られます。享保十五年三月十四日には中山寺への参詣者が伊丹郷町内を通過する際に喫煙することを禁止したこと、享保十八年三月五日には放火が多くなったので外出時には提灯をもっていくこと、放火犯を捕まえたら五貫文の褒美が出ること、享保十八年七月二十八日に北少路村西側より出火したが、周囲が瓦茸だつたため鎮火したことなどが書かれています。時代ほ下りますが、「穴蔵」と呼ばれる地下室も防火対策のために設けられたものと考えられます。

地下室について
 写真2は第六十六次調査で発見された江戸時代後期の地下室です。南側には溝が隣接し、長方形で底はほぼ平坦です。規模は長さ5m、幅3m、深さ80cmです。三方に石組があり、20〜50cmの花崗岩が三〜四段残り、西側には石組はなく切石が置かれ、壁がなだらかに立ち上がることから、石段状のものがあったのではないかと考えられます。このような石組のある地下室は伊丹郷町ではたいへん珍しいものです。地下室は石組で敷地の奥側にあることから、江戸遺跡で見られる穴蔵(註3)と同様であると考えられます。江戸の穴蔵が普及し始めたのは明暦の大火(一六五七)直後で、伊丹はそれよりずいぶん遅れました。検出例も十例足らずで、他の例では石組みはなく、壁面に板の痕跡が残っているものもあります。

おわりに
 焼土処理土坑は火災の後始末をするために掘られた土坑と考えられていますが、建物の床下に掘られている場合が多く、ゴミ穴は裏庭に掘られているので、単に処理するだけのゴミ穴とは性格が違うものと思われます。土坑の中には瓦を多量に含むものと含まないものがあることや、地盤が緩むにもかかわらず敢えて再建する建物の床下に掘られていることなど不明な点も多いのです。
 現在、有岡城跡の発掘調査は三〇〇次を超えています。第十七次調査の時点では不明遺構だったものがのちの調査で酒蔵の搾り場遺構であると判明した例もあります。今後の調査で火災跡、焼土処理土坑も明らかにしていきたいと思います。
(伊丹市教育委員会 社会教育課)

註1.伊丹市役所『伊丹市史』第四巻 一九六八年
註2.小林茂校註『八尾八左衛門日記』原田伴彦ほか編「日本都市生活史科集成 十 在郷町篇」学習研究社 一九七六年
註3.小沢詠美子「災害都市江戸と地下室」「歴史文化ライブラリー」 三十三 吉川弘文館 一九九八年
参考文献
伊丹市役所『伊丹市史』第二巻 一九六八年
伊丹市立博物館『新・伊丹史話』 一九九四年
細川佳子「伊丹郷町における火災遺構について」藤井直正氏の古希を祝う会編「摂河泉とその周辺の考古学 藤井直正氏古希記念論文集」 二〇〇二年

市内の古式道標
〜館蔵三点から〜
小長谷 正治
 昨年の秋、博物館では企画展「巡礼と街道l西国三十三所の旅・」を開催しましたが、その折に市内の街道と道標をテーマにして、館蔵の道標六点を展示しました。そのうち一点は市指定文化財「寛文九年銘道標」で、以前から展示していたものですから、ご存知の方も多いと思いますが、荒牧に所在した「延宝二年銘道標」と年代不詳の瑞ケ池西側に所在した道標は、今回が初めての公開となりました。
 伊丹を含め、宝塚、川西、池田、箕面などの北摂地域は、全国的に見て最も古い道標が分布する地域として知られており、全国の古式の道標ベスト二〇(古川久雄「寛文八年安倉姥ケ茶屋道標と小浜をめぐる宝塚の初期道標(後)」)の中にこの地域の十一基の道標が含まれていることでもわかります。因みに、最も古い道標は三重県伊勢市の寛永三年(一六二六)のもので、北摂地域では宝塚安倉南姥ケ茶屋と岡安倉北の寛文八年(一六六八)道標が最も古く全国で七・八番目です。市内では北伊丹の寛文九年道標が全国九番目にあたります。後に説明する荒牧の延宝二年(一六七四)道標は、全国十九番目の古さです。
 このように、早くから道標が整備された北摂地域には、京・大坂と九州・西国や丹波・但馬などの山陰地域を結ぶ政治経済に関わる重要な街道が通るほか、西国三十三所の霊場を巡る巡礼道の存在が大きいと考えられます。また、古くは「日本書紀」にも記され、豊臣秀吉も入湯した有馬温泉への道筋の存在も関係しています。このような事情から、北摂地域の交通上の重要性は高かったのでしょう。
 現在博物館には、これから紹介する三点のほかに、最近収集された鴻池北指し地蔵を含めて七点が館蔵されています。本来は建てられた現地において保存されるべきものでしょうが、道路の拡幅や民有地との関係から博物館に持ち込まれる道標が増えてきています。散逸することを考えれば止むを得ないでしょうが、やはり現地において大切にしていきたいと思います。
 さて、市内の古式道標三点ですが、北伊丹寛文九年銘道標、荒牧延宝二年銘道標と年代不詳の瑞ケ丘道標です。北伊丹道標は、西国街道から伊丹郷町・尼崎方面に分かれる三叉路に建てられていたもので、正面には「南無阿弥陀仏」の名号を中心に、「右 ひやうこにしのミや」、「左 あまかさきいたみ」と刻まれています。右方向に、西国街道を進むと兵庫・西宮、左方向に進むと尼崎・伊丹方面であることを示しています。右側面に寛文九年(一六六九)の年号、左側面に建立者(施主)の氏名が刻まれていたと思いますが、摩滅して読めません。この道標の近くには、「辻の碑」や元禄一四年道標もあり、市内でも最も交通上重要地点であったと考えられます。
 荒牧延宝二年(一六七四)銘道標は、荒牧バス停の道路の傍らにひつそりと建っていたもので、道路拡幅により、博物館に収蔵されました。建っていたときは、道標の半分くらいが埋まっていましたので、刻まれた文字の全体を知ることできませんでしたが、この度すべての文字を読み取ることができ、新たな知見を得ることができました。因みに延宝二年は、伊丹郷町の旧岡田家酒蔵が建てられた年に当たります。正面中央に「南無阿弥陀仏」の名号が、向かって右側に「延宝二甲寅年 右ハたんばみち」、左側に「八月二十九日 左ハゆの山みち」とあります。「ゆの山みち」は、方向から言えば有馬温泉のことと考えられます。中央下部に。「かくや西念」という人名があることが新たに発見されました。
 県下で最古の道標である寛文八年の宝塚安倉の両道標にも「千日かくや 道心西念」と刻まれており、その関連が注目されます。古川久雄氏の研究によると、「千日かくや」は、二箇所の隔夜堂を一日おきに参篭し千日間続ける信仰のことで、大和・河内のほか和泉や摂津・丹波など広範囲で行われていたそうです。近くでは西国三十三所霊場の勝尾寺と中山寺の間でも行われていたことを明らかにされています。おそらく西念という出家者が、寛文八年に千日修業の満願成就を記念して建立したものと考えられます。仮に宝塚安倉の道標を建立した「かくや西念」と荒牧道標の西念が同一人物であれば、この西念は寛文八年の六年後にもう一度千日かくや修行に挑戦して満願成就したことになります。
 次に、瑞ケ丘道標ですが、この道標には年号がありませんので建立時期はわかりませんが、道標の形から先の道標より古い時期のものである可能性があります。正面中央に「南無大慈大悲観世音菩薩」と刻まれ、その右側には「右ハ中山道是より三十八丁」、左側には「左ハ小ばまみち」とあります。もと建っていた場所は、瑞ケ池の西側で、伊丹郷町から北に向かって延びる有馬道から中山寺に向かう中山道が分岐する場所でした。
 中山寺までの距離三十八丁(約四キロメートル)と、さらに中山寺の本尊十一面観世音菩薩を示す梵字(キャ)が刻まれていますので、中山寺と関係の深い道標と言えるでしょう。面白いのは、宝塚の小浜宿を「こはま」ではなく、「小ばま」と濁音で記していることです。当時はそう呼んでいたのかもしれません。天正十七年(一五八九)、豊臣秀吉が有馬温泉へ入湯の途次、伊丹魚屋町の岡田次郎左衛門家に泊まった後、この道を通って有馬に向かっていますので、当時は大変重要な街道だったのでしょう。
 西国街道が通る伊丹市域を中心に、川西・宝塚には巡礼街道・京伏見街道、尼崎には中国街道が、さらに有馬温泉に向かう有馬道や丹波道、また中山寺への道などが毛細血管のように張り巡らされています。加えて猪名川の水運もあったでしょう。京の都や商都大坂と西国諸国や北摂・丹波方面との物資・人・情報がこの地域を通って流れていたのでしょう。そのため、全国でも早くから街道の整備と道標の建立が進んだと言えます。今後、博物館では江戸時代の伊丹市域の果たした役割について、流通という視点で見つめなおしてみたいと思っています。
(伊丹市立博物館)