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目次
瓦の模様について〜軒丸瓦〜‥‥‥‥…………1
伊丹郷町における町場の成立過程と町名の移り変わり……2〜6
伊能忠敬と伊丹…‥………………………7〜11
川辺郡と豊島郡の条里と郡界……………12〜13
平成19年度博物館もよおし案内………………13
事業の回顧・編集後記……………………14〜18

瓦の模様について〜軒丸瓦〜
中畔 明日香

 昨年、「是非、屋根にも注目し、鯱を見つけて下さい。」と書きましたら、「あそこで鯱を見たよ。」という連絡を数件いただきました。この場をかりてお礼申し上げます。
 さて、今年も引き続き瓦の話といたします。
 春、田んぼにはピンクのレンゲの花が咲き乱れます。瓦の模様にも、れんげが使われています。しかし、こちらは 「蓮華」と書き、字のとおりハスの花を表しています。仏教と蓮華(ハス)は、切っても切れない関係です。
 6世紀、大陸から半島を経由して、仏教が伝来した際、教義以外に、寺院をたてるための土木・建築技術も伝わりました。その中には、造瓦技術も含まれます。
 それまで、国内には板・茅・柿葺きなどの建物しかありませんでした。最古の寺院である飛鳥寺(奈良県明日香村) の軒先は、蓮華文軒丸瓦で飾られました。飛鳥に都があったこの頃、寺院だけが瓦葺きでした。のちの藤原・平城京になると、寺院以外の宮殿や役所にも瓦葺き建物が建てられるようになります。平安時代までは、大抵、この模様の軒丸瓦が採用されています。
 当保存協会発足の発端となつた国史跡「伊丹廃寺跡」の発掘調査でも、蓮華文の軒丸瓦が出土しています(図(1)/「摂津伊丹廃寺跡」伊丹市教育委員会より)。
 軒丸瓦の模様も、中世になると、蓮華文ではなく、巴文に変わります。(図(2)/同前述)。
 現在、多くの寺院や城はこの模様で飾られています。皆様が寺院や城で目にする軒丸瓦は、この巴文が多いかと思います。この模様も、巴の右巻き・左巻きの違いや、珠(丸い粒)の大きさや数の違いがあります。
 また一つ、屋根に興味をもって頂けたでしょうか?
(伊丹市教育委員会生涯学習部主任)

伊丹郷町における町場の成立過程と町名の移り変わり
山本 喜輿士

はじめに
 私たちの住む伊丹市は、現在ほとんどの地域で新しい住居表示に代わり、旧町名や地名が消え、忘れられようとしている。利便性や利害を追求するあまり使い慣れた地名や町名が消えてしまうことは残念である。
 古文書や史料を見ても全て旧町名や地名で書かれている。それらの地名や町名が現在使われている住居表示のどの場所に当たるのか関連対比し、古絵図(『伊丹古絵図集成」伊丹資料叢書6)や古文書(『正心調法記』・『有岡古続語』など『伊丹市史』第四巻)からわかる町場の成立の過程と町名がどのように変わっていったのか時代を遡って整理してみたい。

一、町場の成立過程
 安土桃山時代末期の文禄年間(一五九二〜一五九六)伊丹郷町は「伊丹村」をはじめ「大鹿寺村」「北少路村」「昆陽口村」「中少路村」「円正寺村」「外城村」「高畑村」「野田村」「植松村」「下市場村」「外崎村」の一二村で構成され、その内伊丹村は、「藁屋町」「柴屋町」「魚屋町」「中之町」「材木町」「竹屋町」「南町」「無足町」「鍋屋町」「柳町」「米屋町」「井筒町」「裏町・裏屋町」「紺屋町」「新町」の一五町の町場が成立していた。
 江戸時代初期の寛文年間 (一六六一〜一六七三)伊丹村に「殿町」と「北之口町」の二町が成立し、伊丹村は一七町となつた。
 元禄年間(一六八八〜一七〇四)には「常盤町」と「袋町」「湊町」「大手町」「堺町(境町)」「天王町」「扇子町(扇町)」の七町が成立し、伊丹村は二四町となつた。
 『正心調法記』には、寛文から元禄の年間中に無足町が「伊勢町」(『有岡古続語』では、元禄三年(一六九〇)に改称したと記されている)、袋町が「住吉町」、殿町が「鍛冶屋町」藁屋町が「綿屋町」に、柴屋町が「泉町」、裏町(裏屋町)が「八百屋町」にそれぞれ改称したと記されている。
 江戸時代中期の正徳年間 (一七一一〜一七一六)に「橘町」(『正心調法記」には寛文−元禄頃までは「鰻町」と言ったと記されている)と「宮崎町」の二町が成立し、伊丹村は二六町となった。
 享保年間(一七一六〜一七三六)に「戎町」が成立し、伊丹村は二七町となり、付近の村々とともに郷町内が「町村家続き」となって在郷町としての形態が整った。
 江戸時代初期、所領の関係で、中少路村を北と南に、野田村を新と古に分割され、また台地上に散在する領主の異なる外崎村を上外崎村と呼び、これを含めて一五力村とも呼んでいる。
 これらの村や町は通り・筋など道路の両側に形成されており、明治の初期に伊丹村が伊丹町となり、明治七年(一八七四)伊丹郷町内の一一力村(一四力村)が伊丹町と合併し、第2次の伊丹町となつてからもこれらの町名は継続された。
 この町村の形態を仮に「町場型」と呼んで次に述べる名称の形態と区別したい。

二、大正期以降の町名(字名)
 大正年代(一九一二〜一九二六)に入り、これらの町々の町名(字名)は道路を境界としたものに代わり、大きく様変わりすることになつた。
 大正四年(一九一五)の「地籍図謄本」、昭和一七年(一九四二)発行の『伊丹市土地賓典』や、『昭和二八年頃の伊丹市大字・小字図』によると、伊丹郷町は「大廣寺」「櫻崎」「溝口」「宮ノ前」「内畑」「茶園」「雲正ノ上」「本町」「殿町」「中ノ町」「山ノ上」「西ノ町」「東ノ町」「長谷堂」「古城」「鳩ノ垣内」「池ノ坂」「高畑」「外城」「野田」「植松」「鵯塚」「下市場」「外崎」の二四の字名に統一された。
 これら旧字二四の内、桜崎・溝口・山ノ上・内畑・本町・束ノ町・西ノ町・茶園・雲正ノ上・長谷堂・古城・鳩ノ垣内・池ノ坂・宮ノ前・鵯塚の一五の字名は全く旧町・旧村名にも無かった字名が使われている。
 文化年代(一八〇四〜一八一八)を表したといわれる『文化改正伊丹之図』を見ると、村名・町名のほかにミゾロ・雲正坂・古城・ハセントウ坂・鳩開地・池ノ坂・ヒヨドリ塚地名がみえる。
 例えば「溝口」はミゾロから、「雲正ノ上」は雲正坂から、「長谷堂」はハセントウ坂から、「鳩ノ垣内」は鳩開地から(『新日本分県地図』の「兵庫県地名総鑑」では「はとかいと」と呼ばせているが、鳩開地からすると「はとのかいち」と呼ばれていたと思われる=筆者の幼少時には、「はとのかいち」と呼ばれていた記憶がある)、「池ノ坂」はそのまま、「鵯塚」は「ヒヨドリ塚」からきたものと思われ、「宮ノ前」は猪名野神社の前からつけられた字名と思われる。ほとんどが地元でいわれていた通称が字名となつた例である。
 道路の両側に成立した町村は、道路を境界とした字名になり、町村は二〜三の字に分割された所が多々出来ることとなつた(詳細は別表「江戸時代の町村名と小字名との対比」参照)。
 この字名の形態を「町場型」の地名と区別するため仮に「地割型」と呼ぶことにする。
 大正期に「地割型」の地名になつても、三〇〇年以上も続いた地名が消えることなく、昭和期まで通常の会話や手紙などの郵便物の宛名にも使われ「町場型」と「地割型」とが混在していた。この字名は資料が示すとおり土地の戸籍というもので、通常の生活では「町場型」の地名が主流であったと思われる。
 その典型が、(一)大正七年(一九一八)「伊丹町行政区設置規定」と(二)昭和一三年(一九三八)「伊丹町呑合」である。
 詳細は別に表として掲載した「伊丹郷町内の伊丹町行政区設置規定と伊丹町呑合(伊丹郷町分)」を参考にしていただきたいが、この表内の三ケ町とは、井筒町・八百屋町・紺屋町の三町と思われ、柳小路町とは柳町のこと、下市場町は第九区の大手町に、外崎町は第二区の高畑町・伊勢町・野田町に組み込まれたと推測される。
 また本町は、一丁目から五丁目まで記載されているが、その名称は、寛政八年(一七九六)頃に著わされたといわれている『正心調法記』の 「町名旧寛文・元禄頃迄唱之 当時本名之外二通称所」の項で「本町と言うハ竹・材・中・魚・泉・綿、此間を合称ス、又六ケ町とも言、云々」とあり、この時代すでに通称「本町」と呼ばれていたことが分かる。
〔参考〕
 伊丹町呑合とは、昭和一三年(一九三八)八月に作られた隣保制度のこと。
 呑合というのは「一本の井水を共に飲み合ふの謂れにして、向ふ三軒両隣り親睦協和」することを意味し、すでに数十年来吉凶禍福をともにしてきた任意の組合組織であった。
 伊丹町では、この呑合をもとにして隣保組織を構成し、その名称も従来の「呑合」を尊重して、これを受継いだ。伊丹呑合は、最低五戸から最高三五戸を単位として組織され、二六の行政区の各区ごとに五個ないし三〇個の呑合が属した。
 隣保(呑合)組織を基礎として、さらに昭和一五年九月の「部落会町内会等整備こ関スル訓令」に基づき、戦時体制下の部落会・町内会・隣保組織が、いっそう整備・強化されていった。
 敗戦直後、部落会・町内会が解散させられたことにより、市は行政事務についての末端への伝達組織を失ったが、昭和二五年八月一日「行政事務の周知徹底を図り市政の民主化に資するため」として早くも地区広報委員を設けた。その後各地区に住民会としての自治会が設けられた。(『伊丹市史』第三巻による)

三、新住居表示の実施へ
 伊丹郷町は、昭和四九〜五四年にかけて「住居表示法」(昭和三七年・一九六二)に基づく新しい住居表示が施行され、清水一丁目、宮ノ前一〜三丁目、北伊丹一丁目、中央二〜三・六丁目、伊丹一〜七丁目、東有岡一〜二丁目の一七の地名・丁目に集約された。そのうち旧字名で住居表示に使われたのは「宮ノ前」ただ一つで、他の地名は表面上から消えることとなった (詳細は別表「小字名と現住居表示との対比」参照)。

(参考)住居表示に関する法律(抜粋)
(住居表示の原則)
第二条 市街地にある住所もしくは居所又は事務所、事業所その他これらに類する施設の所在する場所(以下「住居」という) を表示するには、都道府県、郡、市(特別区を含む。以下同じ)、区(地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第二百五十二条の二十の区をいう)および町村の名称を冠するほか、次の各号のいずれかの方法によるものとする。
 一 街区方式 市町村内の町または字の名称並びに当該町または字の区域を道路、鉄道もしくは軌道の線路その他の恒久的な施設または河川、水路等によって区画した場合におけるその区画された地域(以下「街区」という)につけられる符号(以下「街区符号」という)及び当該街区内にある建物その他の工作物につけられる住居表示のための番号(以下「住居番号」という)を用いて表示する方法をいう。  二 道路方式 市町村の道路の名称及び当該道路に接し、または当該道路に通ずる通路を有する建物その他の工作物につけられる住居番号を用いて表示する方法をいう。

 先に述べた「町場型」は「道路方式」に、「地割型」は「街区方式」に相当する。伊丹市の住居表示の方式は、「街区方式」が採用されている。

おわりに
 新しい住居表示が決まるまで紆余曲折があったと思われるが、かっての地名はいくら馴染みがあるとか、伝統があるとか言っても新しい住居表示が実施されるといずれ失われてしまうものである。ただかろうじてその名残を留めているのが自治会である。
 戦後の自治会は、「伊丹町呑合」の区分けをベースとして設置され、その町名を自治会の名称に使用されている。しかし一部構成町名と異なる自治会、例えば堺住や本五旭自治会のように二つの町の合称や、茶園・宮ノ前自治会のように字名からとった名称などもある。
 また旧地名は地域の公共施設や公園などの名称にかろうじて残されているのがせめてもの救いである。

参考文献
「伊丹市史」
『伊丹古絵図集成』伊丹資料叢書6
『「伊丹」−まちの歴史と景観−』伊丹市都市景観形成基礎調査報告書
「兵庫県の地名」I 一九九九年 平凡社発行
「新日本分県地図」昭和四六年 国際地学協会発行
(伊丹市文化財保存協会理事)

伊能忠敬と伊丹
益尾 宏之

一 はじめに
 私は定年退職後の趣味を深める一環として歴史散歩に毎月2回以上参加している。郷土史の深みを体験するにはこの日と足で確かめるのが一番だと思っている。
 二年前に「『摂津のへそ』を伊丹に求めて〜西国街道・有馬とその周辺を訪ねて〜」という歴史散歩を関西歴史散歩の会の主催で伊丹市文化財ボランティアの会と伊丹市立博物館友の会のご協力をいただき実施したことがある。「その時々の歴史を駆け抜けた武将だけでなく文人、庶民等の足跡」をこの目で確かめたかったからである(1)。
 その際、私の念頭にあった人に松尾芭蕉と伊能忠敬がいる。松尾芭蕉については『笈(おい)の小文』に貞享五年(一六八八)四月二十二日に兵庫から京へ帰る際、西国街道を東進していることが書かれている。そこを「芭蕉翁あゆみの地」として昭和四十七年六月に伊丹市教育委員会により記念碑が建てられている。排人芭蕉は伊丹に立ち寄っているが、伊丹には弟子がお らず、伊丹で俳句を作った具体的な足跡は残されていない(2)。
 伊能忠敬については江戸時代に三度伊丹に測量するために立ち寄っていることに私は注目している。併せて五十五歳から七十三歳まで日本国土を測量して踏破しょうとする思いに駆り立てたのは何かということにも六十半ばの私としては関心を持っている。
参考文献等 (1)平成十七年九月六日実施 (2)伊丹市文化財ボランティアの会編「ふるさと探訪 文化財を訪ねて」

二 伊能忠敬について

(一) 人間伊能忠敬
 伊能忠敬は(1)・(2)、延享二年(一七四五)上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里浜町小関)に生まれ、十八歳のとき下総国香取郡佐原村(千葉県佐原市)の酒造家伊能家に養子となった。忠敬の商才で伊能家の事業の酒造行や米穀業の経営を守り立てることができた。
 事業に成功した忠孝は四十九歳で家督を譲り隠居して江戸に出て天文・暦学を志し、五十一歳の天文方高橋至時に入門した。
 至時は大阪の玉造の同心であったが、天文・暦学の学者麻田剛立に学んだ。剛立は間重富と共に幕府(松平定信時代)から旗本の天文方に登用された人物である(3)。二十歳以上の年の差がある者に入門したのは、一から学問の道を究めるには年齢差は問題ではないと思ったからである(4)。
 これらの伊能忠敬の人間像について二つの側面から評価がされている。一つは戦前、『偉人』の一人として修身の教科書の中で勤勉に修行し、「日本的美徳のもとをつくった人」として評価されている(5)。
 戦後の教科書で湖面からの伊能忠敬の名前が二宮尊徳らと共に消えていることを指摘している人もいる(6)。
 もう一つは五十歳少し前から、測量について基本から二十歳以上も若い人から学び、七十歳を少し超えるまで日本国土を測量することに情熱を傾けたことをその生き方が「生涯青春」であったことが評価されている(7)。その当時の時代と現在とでは平均寿命が二十歳以上異なり、単純に比較できないが、伊能忠敬がこれまでの仕事の第一線を退いた後に残された人生を別の仕事に没頭できたことに私個人としては魅力を感じる。
参考文献等 (1)伊能忠敬については青木昆陽、林羅山らと共に「近世洋学技術者」に一人としての伝記の研究がある。田村栄太郎「人物・近世洋学文化史」雄山閣 (2)平成十九年二月七日付産経新聞「流域紀行・利根川を歩く(3)では 「地球を一周した男」として紹介している (3)三浦照雅「肥後生還−平成の天文方−」、伊丹古文書を読む会会報「遊心」第十七号 (4)渡辺一郎「伊能忠敬の地図を読む」河出書房新社 (5)小島一仁「伊能忠敬の人間像」東京地理学協会編集、『伊能図に学ぶ』朝倉書店 (6)濤川栄太「戦後、教科書から消された人々」ごま書房 (7)童間冬二「伊能忠敬」、「生涯青春の生き方哲学」三笠書房

(二)測量家伊能忠敬
 天文・暦学を学んだ伊能忠敬が日本国土を測量するようになつたかについてはこれまで色々な説明がなされている。高橋至時に暦学を学んだ伊能忠敬が暦学の解析の上で地球の大きさを測ることが問題となつていた。そこで当時、住んでいた江戸の町内の特定の場所を歩測だけで計るのではなく「地球図」の上でも技術的に測量する方法を検証していたことは特筆されている(1)。
 伊能忠敬は寛政十二年(一八〇〇)から文化十一年(一八一四)に十次にわたって日本国中を北は北海道・蝦夷地の根室近くのニシベツから南は九州の屋久島・種子島までを測量している。
 第一次から第四次の終了の享和三年(一八〇三)までは伊能忠敬は個人事業として行われた。個人事業とはいえ幕府の許可を得た上のことであった(2)。
 忠敬が蝦夷を測量する十年程前から日本近海にアメリカやイギリス等の列国の船が来航していた。当時、ロシア船が蝦夷地に接近しており、幕府は諸大名に警戒を命じていた時代背景があった。
 文化元年(一八〇三)以降は幕府の直轄事業として天文方高橋景保の手付(手伝職)という役職と十人の扶持を与えられて第五次の文化二年(一八〇四)から西日本一帯の測量に取りかかった(3)。
 伊丹地域の測量は第六次の文化五年(一八〇八)と第七次の文化六年(一八〇九)と文化八年(一八一一)の測量の中で行われている。
 十七年かかっての測量はその病没した文政元年(一八一八)の後の文政四年、幕府に上程された「大日本沿岸実測録」と「大日本沿岸海輿地全図」として完成された(4)。そこには伊丹付近の「伊能中図」が残っている。その部分図の写しは次の通りであり、測量隊の伊丹地域での足跡を知ることができる(5)。 参考文献等 (1)渡辺一郎「伊能忠敬の地図を読む」河出書房新社 (2)渡辺一郎「伊能測量隊まかり通る」NTT出版、渡辺一郎「伊能忠敬の地図を読む」河出書房新社 (3)伊丹市史「第二巻」 (4)渡辺久雄「伊丹と絵図」・「新伊丹史話」伊丹市立博物館 (5)「伊丹古絵図集成」(本編)編集・解説八木哲弘伊丹資料叢書6

三 伊丹における測量状況について

(一) 測量日記の概要
 伊能忠敬は測量の記録を毎日書いており、それを清書した「測量日記」(二十八冊)が作られ、国指定の重要文化財に指定されている。それを佐久間達夫氏が「伊能忠敬 測量日記」として原本を忠実に校訂されている(1)。
 その「測量日記」から伊丹地方での測量の跡をたどってみるとその概要は次の通りである。
参考文献等 (1)一九九八年六月 大空社発行 全六巻・別巻一冊

(一) 第一回目
 文化五年(一八〇八)三月一回、尼崎藩郡代の見送りを受けて六つ半後、神崎村を出立した伊能忠敬の一行は神崎−伊丹街道を猪名寺村(田安殿領)から伊丹郷町上松村(ここから近衛殿領)に入る。そこから古野田村、新野田村、高畑村外城村、そして円正村を通って伊丹にはいり中之町の札場の辻に達した。伊丹町会所(1)で昼食(「中食」)をとる。そこから昆陽口を通り北少路村、伊丹村、天王町を大広寺村(伊丹郷にて阿部播磨守領分也)に至る。伊丹郷町を出て街道を大鹿村まで測進している。大鹿村地内の西国街道との追分地点に「測留印杭」を残置している。
 そのあと一行は千僧村、昆陽村(又駅)の本陣川端七右衛門、脇本陣松村玄達の二軒に別れて止宿している。九ツ頃、夕刻には昆陽村の領主阿部播磨守家士松本築蔵が村役人として用向きの有無を聞きにきたが、別に用向きはないと答えている。翌2日朝六ツ半頃に昆陽村を出立し、測量しないで西国街道を西へ寺本村、山田村(道より道より二、三丁人家)これまでは川辺郡、その後は武庫郡になる。西昆陽、常松地内を通って武庫川を渡り、団ノ子村、上大市村当を通って西宮に至っている(2)。
 小休止した後、その日のうちに兵庫に達している。
 参考文献等 (1)伊丹町会所については、石川道子氏が「伊丹郷町と町会所」と題し、平成十八年十一月十八日伊丹市文化財保存協会創立四十周年記念講演会の中で詳しく話されている (2)「伊能忠敬 測量日記」第二巻

(二) 第二回目
 翌文化六年(一八〇九)十一月に九州の測量に向かう途中に西国街道を測量している。十一月九日、朝先後手六つ前後に半町宿(箕面の瀬川宿との相宿)を出発した忠敬の瀬川宿より測量を始め石橋村(青木甲斐守分)から川辺郡下河原村(安部摂津守領分)に入り、猪名川(河原共幅二百三〇間。水はなし)を渡って北村、辻村字伊丹坂から大鹿村(青木甲斐守領分)まで側進し、前年に打った「即留印杭」にいたっている(「先手の初辰の春印合測」)。
 北村、辻村入会(青木甲斐守領分・大橋与惣右衛門知行)。北村字伊丹坂は人家十四軒。忠敬と別行動をとった坂部貞兵衛らはその日半日から大鹿村に直行し、昆陽宿で昼食をして、「即留印杭」から測景を始め、西国街道を側進して西宮に達している(1)。
 参考文献等 (1)「伊能忠敬 測量日記」第三巻

(三) 第三回目
 三回目は文化八年(一八一一)である。九州東南部から中国内陸部を側進した忠敬の一行は播磨国加西郡坂本村で二隊に別れて播磨の内陸部を別のルートで測量し有馬郡湯山町に逗留している。忠敬より一足先に湯山に着いた坂部らの一隊三月十一日湯山町から川辺郡恩領小浜に着く(脇本陣木下吉兵衛門に止宿)。翌十二日に小浜から安倉村−尼ケ崎領鴻村恩領新田中野村枝東野(百姓治郎兵衛、牡丹を作り諸国へ売るという、名花多し)−麻田領大鹿村(昨年測量した残りの部分)までを測量(一里八丁三十五間一尺)。その後に小浜まで引き返して小浜から中山寺−中筋村までを測量した。この日は中山寺で止宿してあとから来た忠敬の一行と合流。
 この小浜−大鹿の測量が伊丹市域測量の第三回目である(1)。
 伊能忠敬の伊丹での測量の活動内容とその意義を説明しているものとして、次のものを参考にした。
 ◎伊丹市史 第二巻
  第三章「幕藩体制の崩壊と伊丹」
   第三節 伊丹地方農村のできごと
    伊能忠敬の全国測量
    神崎−伊丹街道を測進
    西国街道を測進
 ◎「伊丹古絵図集成」(本編‥伊丹資料叢書六)編集・解説八木智弘

参考文献等 (1)「伊能忠敬 測量日記」第三巻

(二) 測量日記から分かること
 伊丹での三回にわたる測量内容は、以上述べたところであるが、そこから具体的に分かることは次のとおりである。
(一) 本陣の代表者と宿泊したところは街道(大阪街道、西国街道(山崎道)、有馬道筋の陣屋(「宿駅」)を利用している。
(二) 測量した日時、出発したときの天候、時刻出発場所、食事をした時間と場所。
(三) 測量途中の地名は、その当時の町、村の名前でそれぞれの領主の名が記されていた。また測量隊に対応した役人の名前も記されていた。
(四) 宿泊した場所に村役人が測量隊に用事があるか聞きにいっている。
(五) 測量途中の様子
・人家の数
・陣屋と陣屋の公称の距離、昆陽宿は瀬川宿より二里(実測値は一里二十七町二十四間)、西宮宿は昆陽宿より二里(実測は二里五丁三十二間)
・猪名川の状況「河原共幅二百三十間、水はなし」
・名所、旧跡として寺本村「崑崙山昆陽寺」、山田村「師直塚」。
・村の特産物として新田中野村枝東野で「牡丹」を作り諸国へ売る。名花(名前は不詳)が多い。
・前回の測量漏れを実測する。

四 今後の課題

 伊能忠敬の測量についてはこれまでに多くの研究がされており、なお未解明のところもあり、今も新しい測量図が発見されている状況である。
 ここでは、伊丹での伊能忠敬の測量について断片的に触れてみたい。
(一) 伊能忠敬の「測量日記」は伊能測量隊が伊丹で測量に伴い実測したこと、説明を受けたこと、見聞したことが書かれているが、それに対して伊丹町やそれぞれの村でどういう対応をしたかについては、今のところ記録された古文書は発見されていない。しかし、ほかのところでは地元で対応した古文書が存在している。たとえば、第一次から第五次の測量のなかで地元がどういう対応をしていたかの研究成果がある(1)。また、地方の郷土史家が忠敬の測量した街路を検証し、その当時の古文書の調査研究を発表している(2)。
(二) 伊丹での三回の測量した所、途中通った所、宿泊した所についてはすでに述べたところであるが、具体的にどの道を通り、どこで昼食を取り、どの場所で宿泊したかは必ずしも明らかにされていない。地名については「有岡金嚢地図(文化二十三年頃)」である程度は押さえられている(3)。そこには伊丹町会所が法専寺南隣りに「会所」が明記されており、旧市役所が昭和二十九年の火災で消滅している。
 昆陽本陣(4)については誰のところに宿泊したかについては明記されているが、現存しておらず、その跡については特定できない(5)。
(三) 伊丹を測量する前年には幕府から公文書で依頼があり、具体的な指示がなされているはずだが伊丹ではその文書や地元の対応が日記以外に残っていない。特に伊能忠敬が第五次の測量途中の松江で大病を患っており(6)、伊丹での測量にあたっては地元の医者の対応が求められていたことが予想されたと思う。
(四) これらのことから伊丹での伊能忠敬の測量の具体的な内容については地元の関係する古文書の発見が待たれる。
 参考文献等 (1)平成十九年二月三日の産経新聞は伊能忠敬作成の地図(大分県の部)が海上保安庁で三枚発見されたことを報道している (2)渡邊孝雄「伊能忠敬の全国測景と現地の対応について」−第一次から第二次測量を中心に− (3)平成十八年十月十三日の神戸新聞は丹波市の郷土歴史家らが丹波地域での伊能忠敬の第七次の測量で伊丹に来る前の足跡十五キロほどを調査し、脇本陣だつた家に残されている「測量御役人通行帳」の内容を発表した報道している。また、平成十八年十月二十七日の産経新聞の「年の遺伝子」で角野幸博氏は丹波地方における伊能忠敬が宿場を利用した街の活性化で往年の賑わいを取り戻すことを提案している。伊丹市においても参考になると思われる。 (4)「有岡古続語」伊丹市教育委員会編(伊丹市民俗資料第四集)、「伊丹の伝説」 (5)「昆陽本陣」については石川道子「近世の西国街道(山崎街道)」−古文書からの考察−小西酒造株式会社「伊丹歴史探訪」 (6)「昆陽本陣跡」伊丹市文化財ボランティアの会編「ふるさと探訪 文化財を訪ねて」
(伊丹市文化財保存協会会員)

川辺郡と豊島郡の条里と郡界
〜小阪田遺跡の発掘調査から〜
小長谷 正治

 伊丹市域は、かつて摂津国川辺郡に属していました。摂津国には川辺郡を含め、住吉郡・百済郡・東生郡など13の郡(図1)があり、市域の西側は武庫郡と、東側は豊島郡との境界(郡界)がありました。豊島郡は現在の大阪府池田市・豊中市と箕面市ですから、川辺郡と豊島郡の郡界は、すなわち府県境ともなつています。
 川辺郡小坂田村は、その郡界に位置していました。明治22年に神津村と合併し、昭和16年の阪神国際空港(現在の大阪国際空港)の開港により、解村しています。旧村域は、飛行場となり、村の中心部はターミナルビル付近です。
 平成2年度と5年度の2カ年、阪神高速池田線の延伸工事に伴って、小阪田遺跡の発掘調査が兵庫県教育委員会によって行われました。この遺跡は、旧小坂田村の北端にあたり、字名は「都賀元」でした。現在の地名は伊丹市小阪田となっています。江戸時代からの村名は「坂」の字が用いられ、昭和45年の「遺跡分布地図及び地名表」や平成元年に市教委が発行した「埋蔵文化財保護の手引」にも「坂」の字が使われていますが、県発行の最新版の遺跡地図には「阪」の字が使われていますので、遺跡の名称には「阪」を用いることにします。
 この遺跡は、弥生時代から平安時代にかけての遺跡であることが、市教委が行った分布調査で明らかにされていましたが、今回の本発掘調査で、遺跡の始まりが縄文後期に遡ること、また中世まで続く複合遺跡であることがわかりました。
 この発掘調査の成果が、昨年に『小阪田遺跡−大阪府道・兵庫県道高速大阪池田線(延伸部)建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書−』として刊行されましたので、その成果をまじえて紹介します。
 小阪田遺跡のある猪名川東岸の流域には、古代の条里制の地割が残ることで知られ、『伊丹市史』をはじめ専門書にも詳しく分析が行われています。条里制は、広範囲にわたって土地を区画するもので、1町(約109m)四方を坪と呼び、6町(約654m)四方を里と呼んでいました。南北方向、東西方向に条と里名を付け、何条何里何坪というふうに場所の特定が出来るようになっていました。ふつう1郡を単位に条里制地割が施行されました。
 猪名川東岸一帯には、方形区画の地割のみならず、「三ノ坪」・「六ノ坪」・「七八ノ坪」という坪地名が残っており、条里の復原がかなり詳細に行われています。それによると、伊丹市域には、荒牧から鴻池地域にかけては「川辺北条」、猪名川東岸の森本から尼崎市にかけては「川辺南条」と呼ばれる条里が施行され、瑞ケ池・昆陽池から武庫川にかけての一帯は、無条里地帯でした。市域の西部には「武庫東条」という条里が広がり、昆陽寺のある寺本、その南の山田・野間などはその中に入っています。従って、この地域は当時武庫郡であったことになります(図2)。
 小阪田遺跡の位置する一帯はというと、「豊島北条」に含まれています。豊島郡の条里は北条と南条に分けられ、1郡2条里となつていました。これは、川辺郡も同様ですし、西隣の武庫郡は北条・東条・西条の、1郡3条里です。
 条里制は、大化改新で採用された班田収受法(一定の年齢に達した人に一定の面積の口分田を分け与える法)と一体となる制度で、班田制が郡単位で行われていましたので、条里制も郡単位で施行されたと考えられています。ですから、「豊島北条・同南条」と「川辺南条」との境が、当時の川辺郡と豊島郡の郡界ということになります。西桑津以北では猪名川が、南部の森本・岩屋あたりでは現在の府県境と近いところに郡界がありました。小坂田村地域は「豊島北条」に位置しますので、条里制施行当時は豊島郡に属していたことになります。
 平安時代中期に編纂された『倭名類聚鈔』には、「桑津」が豊島郡の7郷の一つに上げられており、また、鎌倉初期の安貞元年(1221)の『勝尾寺文書』には、「摂津国豊島北条西桑津新庄」とありますので、少なくとも鎌倉初期までは西桑津以北の地域は豊島郡に属していたことがわかります。では、いつ頃から小坂田を含めた猪名川東岸地域が、川辺郡に変更されたのでしょうか。実は、それを示す資料はなく、漠然と中世段階で変更されたと推定されてきたのです。
 そこに昨年刊行された小阪田遺跡の発掘調査報告書が重要な資料を提供してくれました。この遺跡は、池田市との境界を越えて広がっていますが、その名称は伊丹市側では小阪田遺跡、池田市側で豊島南遺跡と命名されています。伊丹市側の調査は兵庫県で行われ、池田市側は池田市で執り行われました。
 現在の市境(府県境)は、かなり複雑になっていますが、発掘調査で市境に沿って延びる溝(SD105)が発見されたのです(図3)。溝の規模は幅2m、探さ50〜75Cmのかなり立派な溝です。溝の中から、中世後半期(室町時代)の陶磁器が出土しましたので、その頃使われていた溝と判明しました。調査担当の篠宮正さんの考察によれば、この溝こそ郡界を示す溝で、この溝の発見により、中世後半期には川辺郡と豊島郡の郡界が現在の場所に定まったと解釈されています。
 班田収受法は、大化改新に始まりますが、土地私有の進展、口分田の不足、農民の逃亡や耕地の荒廃など、班田制を揺るがす事態が深刻化し、平安時代の初めころには制度の崩壊が進んでいきました。その結果、条里制の開拓や維持も行われなくなり、条里の区画や郡界も変化していきました。そうした過程を経て、川辺郡と豊島郡の郡界も変化していったのでしょう。
 今のところ、猪名川にあった当時の郡界が、一度に変更されたのかわかりませんが、小阪田遺跡の発掘調査によって、郡界の変化が、年代的に押さえられたのは大きな成果と考えられます。
(伊丹市立博物館)