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目次
・国史跡「伊丹廃寺跡」について……………1
・伊丹大鹿誕生一二〇〇年ふれあいの祭典に寄せて…………2〜5
・「天諌組 伴林光平の伊丹における足跡」……………6〜10
・鴻池山中元長寄進の木製狛犬…………11〜12
・平成20年度博物館のもよおし案内…………12
・事業の計画、回顧・編集後記…………13〜18

国史跡「伊丹廃寺跡」について
中畔 明日香

 昨年のこのページに、伊丹廃寺の軒丸瓦を紹介し、模様から瓦の時期を考えてみました。今年は軒平瓦の模様を、と思っておりましたが、今年2008年は、「伊丹廃寺発掘開始五〇年」というちょうど節目の年にあたるため、お寺そのものを取り上げることにします。
 伊丹廃寺は、昭和三十二年(1957年)、水煙(写真1)・風鐸などが発見されたことを契機として、翌三十三年十二月より発掘調査がはじまり、調査の結果、金堂跡(写真2)・塔跡、それにつづき回廊跡・中門跡などの遺構が見つかり、昭和四十一年に、国の史跡に指定されます。ちなみに、この指定にむけて尽力されたのが貴協会の前身である「伊丹廃寺保存会」であることはご存知かと思います。
 さて、寺院は、門を構え、回廊が巡り、塔・金堂・講堂が築かれています。それら主要建物を総称して伽藍と呼びます。当寺院の伽藍配置は、法隆寺のそれとほぼ同じです。
 ところで、この寺院の築かれた当初の寺名は伝わっていません。当地域には「良蓮寺」という小字名が残っていましたが、それが当初からの寺名であるという根拠は今のところ皆無です。そのため、指定名称としては採用されませんでした。
 指定名称の「伊丹廃寺跡」という名称はというと、昭和十六年六月に刊行された『彿敦考古拳論叢』(東京考古学会)に、藤沢一夫(1912-2003)がお書きになった「摂河泉出土瓦の研究」内でこの寺跡の軒平瓦・軒丸瓦を、「摂津伊丹廃寺」の瓦として紹介されています。これが「伊丹廃寺」といい表した最古の例でないかと考えられます。
 伊丹廃寺跡の保存は、官民あげて多くの人々の力でここまできました。これからも先人たちの思いをうけ、伊丹廃寺跡を後世に伝えなければなりません。
(伊丹市教育委員会生涯学習部主任)

*摂河泉…摂津・河内・和泉の3国の略。

“歴史上の人物と伊丹”について
「伊丹大鹿誕生一二〇〇年 ふれあいの祭典に寄せて」
村上 敏展

平成十九年(二〇〇七)十二月一日、二日
主催‥大鹿景観形成協議会
共催‥大鹿自治会

歴史講演より

一、村名の由来(原文紹介)
 大鹿村の名は、大同二年(八〇七)平城帝の御宇阪上田村麻呂本郡大物浦に宿泊の途次、北方の曠野に狩りを試み、此地に来り森林中に大鹿を獲たるに因り後世村名とせる旨村史にある由一書に記する所にして又田村麻呂の子孫この地に住居せることを現今に至るも全村を通じて阪上姓の大多数なるに徹し明確なりしといふ。
川邊郡誌(大正三年十二月二十五日発行)
*阪上・坂上の使用文字については歴史人名辞典等阪上の使用が多くみられる。

二、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ・七五八〜八一一)
【弘文館・旺文社・角川書店等】
平安時代初期の武将。桓武天皇(第五〇代 七八一〜八〇六)の信任篤く延暦一三年(七九三)より蝦夷征伐のため東下、同二二年六月「副将軍阪上大宿禰田村麿己下蝦夷を征す」(『日本略記」原漢文)と伝わる。数々の武功により同十六年征夷大将軍に任命される。天皇崩御の翌年、大納言に叙せられるも、弘仁二年五月二十三日、平安京京都郊外栗田で没し(五十四歳)山城国宇治部栗栖村に葬られたという。

1、人為(ひととなり)
(1)情に厚く知勇兼備の名将、智は菅原道真、勇は阪上田村麻呂と評された。平安時代初期の蝦夷征討にもっとも深く関わった武将。
 今に伝わる東北地方の有名な行事である「ねぶた=ねぶた祭り」は蝦夷征討において田村麻呂の考案した作戦が起源であると言われる。
 宝亀十一年(七八〇)二十三歳で近衛将監(このえしょうけん)に任じられて以来、武官を歴任し、延暦十三年(七九四)征討副使、同十六年(七九七)征夷大将軍に昇任、東北経営の全権を与えられた。

(2)身長五尺八寸(約一七五センチメートル)、胸庄一尺三寸(約四〇センチメートル)、赤ら顔で、眼光は鷹の如く鋭く、黄金色の顎髭がふさふさしていたと言われ、北地方での活躍ぶりで国中津々浦々の人々から「稀有の名将・毘沙門の化身」と称さたという。性格は柔和で、怒れば鬼神、猛獣もひれ伏したが、笑えば赤ん坊のなつくような優しい顔になつたと言われる。
 大同元年(八〇六)桓武天皇崩御のとき、田村麻呂は殿中にあって天皇の側近に侍し、悲しみの余り、立つこともかなわぬ皇太子を助け、励まし、皇太子に皇位の印と剣を奉ったという。その後も官位昇進を続け、弘仁元年(八一〇)大納言となるも翌二年五月二十三日、京都郊外栗田で没した。武人にふさわしく、王城に向かい武具姿で葬られたといい、栗栖野(京都市山科区)にある西野山古墳がそれと伝えられている。また、坂上田村麻呂は大同二年(八〇七)清水寺を建立したと伝えられているが、東北地方にも彼の建立と伝えられる寺社も少なくない。
 *「坂上田村麻呂」高橋 崇・「坂上田村麻呂」
 亀田 貴之・「平安建都」瀧浪 貞子 著書参照

2、鐘馗(しょうき)伝説
 昭和時代(一九二六〜一九八八)に五十有余年を過ごした私たちの時代に、衣服の防虫剤として使用されていた『樟脳(しょうのう)』と呼ばれた防臭剤があったが、小学校時代の歴史の時間に阪上田村麻呂が大鹿村の名前に由緒があるとの話があった。その時、田村麻呂の人物像として先生が話されたのがこの『樟脳』の箱(入れ物)のラベルに措かれていた大髭の男のような風体であると、言われた記憶があり、爾来、今日までそう思っていた。何となく鐘馗は中国で、田村麻呂は日本で世の人々から武勇すぐれ、そして邪悪をこらしめる正義の英雄として崇められていた相似た存在だろうと想われる。
 鐘馗は中国(支那)の人で、流行病(はやりやまい)を広める疫鬼を掴む神と言われている者で、唐の時代(七世紀初期の頃)に玄宗帝が瘧(おこり=発熱し震えが止まらない)に冒され苦しんでいるとき、夢の中で疫鬼が現れたのを眼太く、髭多く、黒き冠を戴き、礼服を着て長き靴を履き抜剣した大男が現れ、これを捕えて啖う。玄宗その名を問う。答えて日く「臣は 終南山の進士鐘馗なり」玄宗が夢覚めたとき、病は平癒していたという。そのときの状を、描かせたのが創めという。
 現在、日本で端午の節句に飾られる五月人形に造られたり、五月幟に描かれたりしている。

○ 京都の言い伝え  京都の町屋は、中二階の家が多く、一階の屋根と大屋根の玄関の上あたりに、前の道に面して、いかめLい顔をした瓦の置物が、設置されている。これが「鐘馗」と呼ばれる「魔よけの置物」である。
 江戸時代に「鐘馗信仰」が日本に入り、「文は菅原道真・武は阪上田村麻呂」と都人(京の町人)の坂上田村麻呂に対する崇拝感情が結びついたものと想われる。
 京都の言い伝えは、文化二年(一八一五)に大きな「鬼瓦」を据えた家が建てられたとき、前の家の娘が、原因不明の高熱を出して、寝込んでしまった。医師がどのような手当てをしても収まらず、困り果てたすえ、陰陽師に診てもらうと、原因は向かいの家の「鬼瓦」にあるという。「鬼瓦」に跳ね返された邪気が、こちらの家に入り込んだのが原因という。
 早速、京で有名な人形師に頼み「邪気払い」に効果があるという「鐘馗さん」を焼いて貰い「呪み返し」として安置したところ、たちどころに病気が平癒したという。

三、坂上田村麻呂の子孫・末裔の足跡と業績
1、伊丹台地 生活文化圏の誕生
 大同二年(八〇七)坂上田村麻呂は、家臣団の遠征に明け暮れた慰労を兼ね、狩猟を催し、現在の尼崎大物に上陸、北方台地を目指して進み、今の大鹿村の地にいたり、獲物に出会ったと伝えられている。
 田村麻呂は、家臣団に対し「今後は風光明媚なこの曠野に留まり、未来に向けて平和な理想郷を拓き、坂上姓を名乗り、子々孫々に至る永住の地にするよう」告げたという。

(1)伊丹 大鹿村 (江戸期〜明治二十二年・一八九九)の村名
 大同二年(八〇七)以後、大鹿の此の地に定住した坂上党の人たちにより開拓され、村人たちの強い絆や助け合いの心のもと、数々の文化財や伝説の残る村に発展し産業面においても綿作、園芸、酒造(「大鹿洒」元禄十年(一六九七)冬酒三千石・春酒千石、銘酒「剣菱」の醸造元は津国屋勘三郎=大鹿の坂上 一万三千五百八十樽)をはじめ、村の中央で交差する西国街道・有馬道等の街道整備など、数々の地域発展に寄与している。

(2)伊丹 東野村(江戸期の村名)
 苗木生産盛ん。戦後一時激減(生産量八千本に激減)したが、昭和二十五年には八十二万七千本に回復し、現在も盛んである。東野(久保家)生産の「桜の苗木」が海を渡りアメリカ合衆国ワシントンに送られ、見事植樹に成功、毎春ポーツマス河畔に見事な花を咲かせ、国際親善に多大の寄与をしている。その見返りとしてアメリカから「はなみずき」の苗木が日本に送られ、伊丹市内に季節が来るごとに白い花を咲かせている。

(3)宝塚 山本村(江戸期〜明治二十二年の村名)
○田村将軍宮、松尾神社
 坂上田村麻呂(田村丸)公を松尾大明神と崇め奉り、山本郷の産社として創建される。
○木接太夫(きつぎたゆう)
 屋敷の中に花畑あり、牡丹の栽培が趣味(山本台地は溜池がなくボタン栽培に適地)。天正年間(一五七三〜一五九一)坂上頼泰(坂上党武家団棟梁)、武士をやめて花・木の栽培を楽しみ、接木(つぎき)の技術を発明した。その評判が豊臣秀吉に聞こえ、大阪城に招かれ木接太夫という称号を与えられたという。接木の発明により、山本村は園芸先進地となり、阪急山本駅そばには今でも燦然と「木接太夫彰徳碑」が建っています。頼泰は千利休(茶道師匠)とも親しくなり、茶道に必要な花木の栽培も加わり、山本郷の園芸も益々盛んになつたという。
*園芸・植木の日本三大生産地=福岡県(田主丸)、埼玉県(安行)、兵庫県(伊丹・宝塚・川西・池田)

(4)川西 栄根村の村名由来
 大同年間、坂上田村麻呂蝦夷平定して帰りて郡の大物浦に泊す、漠々たる曠野を望めば北方に地あり、名付けて坂上といふ、後ち栄根と改む(川辺郡誌 大正三年)。
○坂上党は、全国三十余か所に屯したと言われている。棟梁は坂上田村麻呂より七代目にあたる検非違使従五位上坂上頼次宿禰(山城国愛宕郡八坂郷に居住)が源満仲(多田満仲)の要請に応じ、山本荘司(大領)に就き西政所(山本台)、南政所(伊丹市大鹿)、東政所(池田市宇保)を統括していたという(宝塚市史)。
○山本の土地は、坂上頼次宿禰が開いたところで、当時(十世紀末一条天皇=第六十六代)坂上武士団の本拠地であった。
 松尾神社(田村将軍宮)の創建 浦部太郎阪上季猛。(宝塚の風土記 川端道春著)

“歴史上の人物と伊丹”について
「天誅組 伴林光平の伊丹における足跡」
益尾 宏之

一 はじめに
 これまでの歴史の舞台に登場した人物の内、伊丹にゆかりのある人は少なくない。前回の「絲海」三二号では「伊能忠敬と伊丹」ついてとりあげた。今回は幕末の尊皇捷夷をめぐり天誅組(天忠組とも言われている。)が大和で決起した歴史の流れの中で命を落としていった人の一人の伴林光平をとりあげたい。
 天誅組に繋がる人の拠点は大和地方・河内地方だけでなく北摂地方にもあった。天誅組が大和・五条で決起される文久三年(一八六三)の前に伴林光平は国学者・歌人として何回かの足跡を伊丹を含む北摂地方に残している。その内伊丹を中心とした足跡を追うことにより、伊丹にゆかりのある多くの文人・墨客の一人として考察してみたい。

二 伴林光平の生い立ち
 伴林光平は文化十年(一八一三)九月九日、河内国志紀林(拝志)(藤井寺市林四丁目)浄土真宗興正派慈眼山尊光寺第十三世住職鈴木雅亮(謙譲)の次男として生まれる。幼名を信丸、後に左京と言い、十五歳の頃から周永と言い、やがて諸国に修学する際に大雲坊とも破草鞋道人とも言った。「これは草鞋が破れてでも就業行脚するのだという強い自覚を意味している。」(1)
 伴林光平の名前で一般には知られているが、これは二十七歳からのことであり、「一つには国学者、歌人、文人、志士としての多方面の生き方と、その多端な人生を物語っている。」(2)
 今日残っている伴林光平の画像三つのうち、ひとつは表紙裏に紹介されている「伴林光平自画像」で佐々木家の蔵である。
 二つ日は同扉文の裏にある「文久元年自画像・松岸寺 伴林家蔵」ある。
 三つ目は前の自画像の後に紹介されている「明治二十一年四月二十五日「やまと新聞」付録の「近世人物誌」・「文久三年九月九日銀峰山の陣」の絵で菊花に想う光平である。
 はじめ二点の自画像については鈴木さんから自宅で直接に懇切丁寧に教えてもらった。光平の人間像とその思いをうまく表現している。
 十六歳で京に上がったのを手はじめに、大和で仏教の修行に励み、その後、朱子学・国史・皇学・和歌を学ぶために和歌山や江戸など各地を点々とする生活が続き、次第に勤皇思想を高めた。その途中で摂津地方の伊丹にも立ち寄っている。(3)
 栄子学については、浜松の儒者川上東山、国学については、伊丹の中村良臣・紀州藩の加納諸平・江戸の伴信友、和歌については因幡国神官飯田秀雄、加納諸平について学んでいる。
 後述する勤皇志士としての実行に入り、文久三年(一八六三)に大和の五条で立ち上がった天誅組の藤本鉄石とは和歌の道でも交流があつた。
 弘化二年(一八四五)、八尾の教恩寺の住職となる。多くの門人に国学・花道の教育を行うが、文久元年(一八六一)に教恩寺の壁に七言絶句「本是レ神州清潔ノ民、誤リテ佛奴卜為リテ同塵ヲ説ク、如今佛ヲ棄ツ。佛恨ムヲ休メヨ、本是レ神州清潔ノ民」を書き残す。続いて「文久元年辛酉(しんゆう)の年、八尾教恩寺を去るにあたって作る「我が児、芳林に、斑鳩中宮王府に仕える伴林光平より」を親の思いを十六歳の長男に七絶に託して出寺。その後大和国法隆寺村東福寺の駒塚の葦屋に住み、勤皇志士として活動した。(4)
 参考文献等 (1)・(2)鈴木純孝「伴林光平の研究」講談社出版サービスセンター平成十三年二十五頁 著者は伴林光平の兄鳳岳の末裔。(3)同一四七頁、二二九頁、二三〇頁。(4)鈴木純孝「伴林光平を知る(その七)−旅人・光平の足跡」河内どんこう第八十三号平成十九年十月。

三 歌人としての伴林光平
 戦後、伊丹市で伴林光平を本格的に紹介されたのは伊丹市史第六巻(伊丹市史編纂専門委員会編 昭和四十五年)収載の岡田利兵衛さんが執筆分担部分の第一章「近世における伊丹文学の展開」である。そこでは「近世後期の文学」の和歌の歌人の一人として紹介されている。これは抜粋して平成二年に(財)柿衞文庫から再刊されている。
 これまで伊丹市で伴林光平が直接取り上げられたことはないが、昭和五十年に市制三十五周年記念の事業の一つとして伊丹市立博物館の第七回の特別展で「頼山陽と伊丹 酒の町に招かれた文人たち」(監修岡田利兵衛、執筆今井美紀)の一人として「和歌の世界」で活躍した歌人夏日甕麿、村上潔夫、加納諸平、藤本鉄石らと共に紹介されている。
 国学・和歌は伴林光平にとってばらばらのものでなはく、幕末の時代背景の中では尊王捷夷という一点に通じるものがあると言えよう。ここでは和歌に情熱を傾注させた歌人としての伴林光平が勤皇志士としてその一生を終えた過程の一端を中心に取り上げてみたい。
 「十六歳で京に上がったのを手はじめに、大和・江戸その他各所に転じて勉学し、しだいに勤皇の思想を高めた。かたわら伊丹の中村良臣、印旛の飯田秀雄について和歌に精進し、かつ加納諸平に入門し熱情ある歌を残している。ついに勤皇の実行に入り、文久三年(一八六三)中山忠光の統率する天誅組に加盟し、河内・大和の各地に転戦した。その結果とらわれて投獄され、元治元年(一人六四)五二歳で刑場の露と消えた。獄中内の作「南山踏雲録」は最も有名である。その他「垣内の七草」・「詠歌大旨」などの著がある。」(1)(2)(3)
 参考文献等(1)(財)柿衞文庫「近世における伊丹文学の展開」平成二年九十七ページ(2)「兵庫 第二巻 都市と文化」(講談社)昭和五十二年十月九十九頁で照会されている「国学・国文学系統図」は下図のとおり。伴林光平が加納諸平に教わっており、加納諸平が夏日甕麿に教わっている。伴林光平が本居宣長の鈴屋門で伊丹歌人の一人であることがこの「系統図」から分かる。
(3)池田市立歴史民族資料館には林田良平さんの「蛸牛廬文庫」の中に伴林光平に関する資料として「南山踏雲録」や「垣内の七草」等がある。

四 天誅組における伴林光平
 戦前には伴林光平は歌人としてより天誅組で活躍した「幕末勤皇の志士」として紹介されている。例えば昭和十一年七月二十四日の「郷土研究『伊丹』」によると
 「幕末の勤皇の志士伴林光平が壮年、時世の中にスタートをきったのが伊丹町からであったことは世人周知の事柄である。史に日ふ。
  伴林光平は通称を六郎といひ、・・・」
と紹介されている。(1)(2)
 天誅組の変は、幕末の文久三年(一八六三)八月十七日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団が公卿中山忠光を主将として大和国で決起すると、伴林光平は記録方として参加する。天誅組の変における、伴林光平ら一行をはじめとする「行軍略図」次図の通である。(3)
 その辞世の旬の一つは「分来てし其の世は夢と成りぬるを何たとらるる猪名のささ原」である。伊丹で歌を学びその後天誅組の流れの中で波乱の人生を送ったことを思うと刑死の直前に彼の脳裏に浮かんできたのは猪名のささ原の風景であつたのであろうと言われている。(4)
 天誅組の変以前の弘化三年(一八四六)の二月八日に加納諸平がその父の墓参に伊丹の正覚院に同行した時に「しるへせし 道やいつらと辿る間に 猪名野の小笹 夕日さすなり」と読んだことがあり、「猪名のささ」の情景が光平にとってその印象が著しく大きかったのであろう。(5)
 参考文献等(1)著者は北摂歌壇呉服社と櫻井杜の櫻井義彰(2)「郷土研究『伊丹』」は昭和十一年一月に「『郷土研究伊丹公論』として創刊されて編集発行兼印刷人は小林杖吉(昭和十五年十一月まで十七冊発刊)。その概要を昭和五十年九月伊丹地方史学会「伊丹史学第二号」一二頁以下で門脇良光さんが「雑誌『郷土背研究伊丹公論』と補筆市立伊丹図書館−昭和初期伊丹の出版物−」で紹介している。(3)森田正明「維新残影」吉備人出版平成十五年五月八十二頁(4)伊丹市文化財保存協会「文学碑をたずねて」平成十七年三月七十八・七十九頁、伊丹市文化財ボランティアの会編「ふるさと探訪 文化財を訪ねて」三十八・六十一頁、(5)前載「光平の研究」四十八頁、前載「近世における伊丹文学の展開」九十三頁
 五 伴林光平の伊丹における足跡
 伴林光平の生涯は「大海に乗り出した航海にも似る」と言われている。その内伊丹を含めた摂津を中心としてその足跡を年次を追って前載「伴林光平の研究」の末尾にある「年譜」を基本にして「断片的」にふれてみたい。(1)
 ◎中村良臣に国学を学ぶ
・天保九年(一八三八)二十六歳
・九月、摂津国川辺郡伊丹下市場(現在の伊丹市東有岡一丁目付近)道場に寓居し、中村良臣に国学を学び、その養子の蓼生園中村良顕と語り合う。(2)
・九月、因幡国鹿野光輪寺の無蓋師が伊丹で語法を講義するのを知り学ぶ。
・十月、摂津岡山(豊中)西麻寺に寄宿して、「孝経権衡抄」と「脱然高踏私考」を書く。
・天保十年(一八三九)二十七歳
 一月、再び無蓋師につき、吹田光徳寺、三宅勝久寺に寓居して、師の煩雑多な教授を助ける。
・弘化三年(一八四六)三十四歳
・二月二日、柿園翁大坂鳥より連絡、早速挨拶に参上する。「名所図会」刊行の件で柿園翁滞在中。 ・二月七日、柿園翁が攝津伊丹、中村良臣宅に宿泊されるのに従う。
・二月八日、昆陽寺正覚院に師の実父荻園の墓参されるのに随行して、十三日、大坂に帰る。
・「須美麗草」「二月七日、翁ニ培ッテ摂州伊丹二赴キ中村良臣宅に宿ス。八日、昆陽寺正覚院二詣デ柿園ノ墓ヲ拝ス」(原漢文)(3)
 参考文献等(1)前載「伴林光平の研究」四八三頁以下(2)前載「伴林光平の研究」四十七頁(3)前載「伴林光平の研究」四十八頁、四九八貢。前載「ふるさと探訪 文化財を訪ねて」六十一頁・鈴木純孝「伴林光平を知る(その七)−旅人・光平の足跡−やお文化協会「河内どんこう」第八十三号一〇〇〜一〇一頁 平成十九年十月
◎摂津吟行
 安政四年(一八五七)九月十三日〜十八日)(四十五歳)
・九月十三日吹田市垂水村で一泊
  「曇り日の影さす谷のかくれ笹折にあひて薫り出にけり」
・十四日箕面、池田 弘誓寺で二泊
  「熊つづらつらつらみれど瀧のへの石のはざまはこの世ともなし」
・十六日多田院へ 西宗寺で一泊
  「瀧山は神の滝山神さびて松も茂れり河もさやけり」
・十七日中山寺へ 伊丹を経て帰る
・かつて伴林光平の師加納諸平の詠んだ「咲きかへるつつじを手折こし其の瀧夜ぞ更に恋しき」を回想。
・伊丹北村 教善寺を経て十八日に大坂廣教寺に帰着。(1)  参考文献等(1)鈴木純孝「伴林光平研究ノート・伴林光平摂津吟行の七日間」大阪春秋一一八号五十二〜五十五頁大阪春秋社 平成十七年四月
◎教書寺を拠点にした北摂に於ける歌の活動
 光平が教善寺に来たのは、「宗旨の関係からか」と言われている。(1)
 安政三年(一八五六)〜安政六年(一八五九)前載の郷土研究「伊丹」では北摂歌壇呉服社櫻井社の横井義彰は北摂における伴林光平の門人を歌集「垣内摘草」「かいとつみくさ」(安政六年正月刊行)から七名の歌人を紹介している。
 川辺部伊丹北村   教善寺 唯浄
 豊能部櫻井谷村野畑 報恩寺 義秀
 豊能部箕面村牧落  安養寺 大真
 豊能郡萱野村西稲  教学寺 玄殊
 豊能都池田町    弘誓寺 呉郷
 豊能郡池田町    託明寺 行湛
 川辺部長尾村山本  西宗寺 宣隆
 安政五年(一八五ハ)四十六歳
 十一月この頃、八尾九宝寺御坊、教善寺等で歌会、添削批稿をする。
 教善寺十二世住職唯浄の和歌冊
 ふくかせに夏はいぬめり夕されは軒端す、
 しきりむの音かな        唯浄

 三十四番左右の歌合せで、光平が和歌で勝負を決めた「ぬき歌十一首」などが今も寺に残されている。(2)
 安政六年(一八五九)四十七歳
 七月中村良顕との再会はこのころか。
 参考文献等(1)前載「近世における伊丹文学の展開」九七頁(2)前載「頼山陽と伊丹」四頁

六 おわりに
 天誅組の大和義挙が起こつたのは文久三年(一八六三)で光平五十一歳の時である。大和で起こつた事件もその前に光平が北摂(伊丹、川西、宝塚、箕面、池田)で和歌と国学を学んだ所がその拠点となつている。とりわけ伊丹は天誅組との結びつきは大きいと言えよう。
 北摂での重要な役割を果たしていたのは藤本鉄石であった。(1)
 藤本鉄石が最初に伊丹に来訪したのは安政四年(一八五七)であり、次は文久二年(一八六二)である。(2)

 伊丹では文人の多くと交わっている。最初の時には光平と伊丹での活動の時期が重なつているが、具体的には分からない。光平の活動の拠点は教善寺であり、鉄石は明倫堂であり、その接点は見つかっていない。
 鉄石の二度の来伊は勤王の志士間の謀議の為と共にその主な目標は伊丹在郷の豪家からの軍資金の調達にあったのではないかと言われている。(3)
 今回この文章をまとめるにあたって「伴林光平の研究」著者である鈴木純孝さんに四月末に関西学術研究都市の区域にある京都府木津川市のご自宅でお合いして不明なことを含めて多くのことを教えていただいた。光平の兄の末裔として史実に基づいて研究を今も精魂こめて続けておられる。
 長年に渡る光平に関する研究は直接現場に行って膨大な関係資料を一つ一つ全身を駆使して調査・接写してこられた。そのため自己の身を削ることになり、光平の研究では他人を寄せ付けない程のものになっている。その研究に対する厳しい姿勢に敬服するのみである。
 私は伊丹市の空港部に在職中の昭和四十八年四月以降航空機騒音の激甚地域にあった教善寺に何回か行って、生前の前住職大路光夫さんから折りにふれ空港間題の現状について教えてもらった。昭和六十二年には、市勤続二十年の職員を対象とした講演会において講師として招かた大路光夫さんから「これまで勤めてこられたのは家族の人の支えがあったればこそであり、家族のひとりひとりに感謝するように」と説かれたのが強く印象に残っております。
 又、伊丹歌人クラブに属しておられた奥様の晴子さんには短歌を少し教えてもらい、「伊丹風物誌」に五句を投稿したことがあり、懐かしい思い出となつている。(4)
 退職後は歴史散歩で教善寺に何回か行ったことがある。平成十八年九月の関西歴史散歩の会で「摂津のへそを伊丹に求めてー西国街道と有馬道周辺を散策するー」を伊丹市博物館友の会と伊丹市文化財ボランティアの会のご協力を得て初めて歴史散歩を企画した。その際に教善寺をその対象の一つとして選び、調べる過程で「光平の隠れ部屋」が教善寺にあること知り、一度直接現場を見てみたいと思っていた。
 今回、拙文をまとめるにあたって五月初めに教善寺に伺った。本堂外陣欄間の百五十年振りの極彩色による完全修復に伴い、「隠れ部屋」の中にある光平関係の額縁や掛軸が表装し直され改修された直後であった。そこで「隠れ部屋」に所蔵されている光平に関する「ぬき歌十一首」をはじめ貴重な資料を見せていただいた。河内から摂津に来た光平が教善寺で歌を教えていたことを歴史の流れの中で改めて実感することができる機会を作っていただいた現住職大路唯彦さんにお礼申し上げます。
 私は、今後とも伊丹の歴史上の人物に関心を持っていきたい。とりわけ、これまであまり取り上げられていないことを少し掘り下げてみたい。
 例えば本人が直接伊丹に来てなくてもその門弟が伊丹で活躍している場合がある。緒方洪庵の門弟がそれに該当している。西宮で生まれて伊丹で活躍した原老柳だけでなく何人かの人がいる。機会があればまとめてみたいと思っている。
 参考文献等(1)伊丹歌人クラブ編集発行「合同歌集伊丹風物詩」昭和五十九年八月(2)前載「伊丹文学の展開」二七頁(3)同一一八頁(4)伊丹歌人クラブ編集発行「合同歌集伊丹風物詩」昭和五十九年八月
(伊丹市文化財保存協会 会員)

鴻池山中元長寄進の木製狛犬
−夏季企画展に関連して−
小長谷 正治

 市域北部の鴻池は、江戸初期から酒造業が営まれ、清酒発祥の地とも呼ばれている。灘地域とは違い、かなり奥まった内陸部に位置する。また、池田や伊丹のような中世から続く在郷町でもない。こうした地域で江戸積み酒造業が行われたことについて、どのような条件がそろっていたのか検討する必要があるが、少なくとも江戸時代前期には、鴻池も含めさらに北にある小浜村や中筋村(ともに宝塚市)などでも、江戸積み酒造業が発達していた。とくに、中筋村の小池治右衛門は、万治元年(一六五八)には酒造米高二千八百石という当時としては相当な規模の酒造が行われていたのである。
 酒荷の運輸という点では大きな経営的負担があったと思うが、中筋村・鴻池村では少なくとも江戸後期までは酒造業が行われてきた。
 鴻池の酒造業は慶長五年(一六〇〇)に始まったことが、『鴻池稲荷祠碑』(市指定史跡)に記されている。この碑は、鴻池山中家の屋敷内に祀った稲荷社脇に、始祖新六幸元の威徳を称えるとともに、一門の繁栄を祈念して建てられたものである。初代新六幸元は戦国武将尼子氏の重臣山中鹿之助の子として生まれ、幸元はこの地で諸白澄酒(清酒)醸造に成功するとともに、酒の販路を江戸に拓き、今の繁栄の礎を築いたことが記されている。
 幸元には八男あった。三男新兵衛は小浜村に、四男治郎右衛門も荒牧村に分家し、二男又右衛門、五男善兵衛、六男与右衛門、八男尊右衛門はそれぞれ大坂に出て、鴻池本家は七男新右衛門が継いでいる。
 鴻池酒については、元禄十四年(一七〇一)に刊行された『摂陽群談』には、「川辺郡鴻池村で造る、香味の宜しきこと他に勝れたり、因って酒を商う家は、この名を借りて売るほどである。地元では山中酒家といわれている。」と記されているので高い評価があったことになる。江戸後期の享和三年(一八〇三)にはこの鴻池には二軒の酒造家がいた。その頃の「摂州酒樽薦銘鑑」には、鴻池屋新蔵と井筒屋きく所持の薦樽が載っている。新蔵は八代元長のことである。元長は、長男の元漸に家督を譲ったところ、まもなく亡くなり、四男元貞も退いたため、再度元長が継いだ。その際に名を新蔵と改めたという。鴻池慈眼寺の境内に山中家の代々の塞が集められている。その中にあってひときわ大きい五輪塔が元長の墓石である。墓石といい、稲荷祠碑の造立といい元長の代の繁栄振りがわかるというものであろう。
 さて、鴻池村の氏神である鴻池神社にも、山中家ゆかりの品が伝えられている。鴻池神社は、曹洞宗の慈眼寺と向かい合わせに建つ神社で、はじめは蔵王権現を祀り、明治二年に安閑天皇社、大正五年から鴻池神社と改称している。社殿は一間社流造り、屋根は柿葺きで、彩色なども良く残っている。全体の構成や細部の手法は近世初期の特徴を持っており、昭和五十一年に県文化財に指定されている。先の震災で拝殿が倒壊し、社殿の覆屋も大きく傾くなどの被害があったが、地元の方々の力によって社殿と覆屋は修復され、拝殿は新築されている。遡ること95年前、大正二年に覆屋の修復を行った際に発見された棟札(建物の建立時期や願主・大工などを記載した木札)には、「元禄六年(一六九三)二月二十二日」と「蔵王権現拝殿大破付今度山中氏依助力建立仕者也」と書かれており、拝殿の建替えに際して山中氏が援助したことがわかる。山中氏とだけ書かれているが、鴻池山中氏は四代元武(享保十八年一七三三没)、五代元浄(正徳五年一七一五没)の頃にあたる。また、拝殿前の手水鉢は文政十年(一八二七)に奉納されたもので、「山中宗囲後南 山中新右衛門」と刻まれている。宗圓は、初代幸元の法名で、文政十年当時は十四代元丘の時代である。年代はわからないが、拝殿前に七代元孚が奉納した燈篭がある。
 さて、本題の木製の狛犬のことである。狛犬には石製のほか木製、金属製、陶製があり、神社の守護神として本殿の前面に立っている。市内の石製狛犬については、博物館友の会が平成十五年から調査を開始され、平成十八年に「伊 丹の狛犬たち」にまとめて刊行されている。それによると、市内で最も古い石製狛犬は、猪名野神社参道にある明和五年(一七六八)の狛犬。さすがに酒造業で栄えた伊丹郷町の氏神である。最も多く造られるのは、江戸後期の文化・文政・天保期で、幕末期の道立は極端に少なくなつている。
 鴻池神社には、文政八年(一八二五)銘の石製狛犬のほか、三対の木製狛犬が奉納されている。現在は社殿脇の浜床に三対が並んで置かれている。このうちの二対が鴻池家あるいは鴻池山中家ゆかりの品である。最も古い元禄六年奉納の狛犬は、元は拝殿の手前にある北小宮の狛犬であったが、盗難を恐れ現在は社殿脇に移っている。像の高さは阿形像が三四センチ、吽形像が三十三、五センチで、胡粉地黒漆塗りでその上に彩色が施されている。阿形像の腹部には「元禄発酉(六年)卯月十四日 遺寄進銭六百文 大坂鴻池甚兵衛 残り氏子男女ら 播州川辺郡鴻池村氏神駒犬」と墨書されている。この年は、先の棟札にあるように拝殿を建て直した年でもあるので、拝殿の建立にあわせて、大坂の鴻池家も援助したことがわかる。
 もう一対の狛犬は、台座の上にあり、高さは阿形像が四十一センチ、吽形像が四十三センチで、胡粉地黒漆塗りは元禄六年狛犬と同じであるが、より精巧なつくりとなつている。台座には「山中幸盛九代の孫 同苗新蔵元長」と彫られている。幸盛は山中鹿之助のことで、それから数えて九代目、幸元からは八代目の元長が、新蔵を名乗るようになるのは、先にも述べたように一旦は長男元漸・四男元貞らに家督を譲ったが、再び家督を継いだ寛政八年(一七九六)からのことである。代では十二代となるのだが、台座は八代としている。元長は、宝暦十年(一七六〇)に尼崎藩の藩札発行にも係っており、元長の代には鴻池山中家の家運は盛んであったことがわかる。しかし、元長の後は衰運をたどり、伊丹郷町の酒造業が華やかだった文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)には幕を閉じていく。鴻池神社では文政十年(一八二七)銘の手水鉢を最後に山中家からの寄進は終わっている。
 博物館では、7月5日から始まる夏季企画展「絵図で旅する伊丹のまち」で、山中元長が奉納した木製狛犬と安永二年(一七七三)に、元長が揮毫した「蔵王権現」の扁額を展示します。清酒発祥の地鴻池と山中家の関わりを示す品々を、ぜひご覧いただきたい。
伊丹市立博物館長