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目次
・行基の遺産「土塔」をご存知ですか?………………………1
・反骨の絵師「岩佐又兵衛」………………………………2〜4
・「緒方洪庵に関係する人の伊丹における活躍」………5〜9
・江戸後期の郷土史家〜古野将盈と梶曲阜〜…………10〜11
・博物館からのお知らせ 夏季企画展………………………11
・事業の計画、回顧・編集後記…………………………12〜16

行基の遺産「土塔」をご存知ですか?
中畔 明日香

 行基は、小学6年生が使う社会の教科書にも載っている有名な僧侶です。伊丹市民の方には、行基町という地名の由来にもなっていますし、昆陽池をつくつた人として馴染み深い方だと思います。
 行基は、天智天皇7(六六八)年に河内国大鳥郡(現大阪府堺市)で生まれ、15歳で出家・得度しました。その後、飛鳥(現奈良県明日香村)や山林で修行を行い、37歳の時、生家を「家原寺」と改め、布教活動や民衆のために布施屋*・院*の建設をはじめます。その後、院・道場につながる溜め池・用水路を、さらには道路・橋などの建設を行います。
 ここ伊丹(当時は摂津国川辺郡)にも「昆陽施院」や「昆陽布施屋」がつくられました。そのどちらかの後身が、現在の昆陽寺だと言われています。また、摂津国に5箇所の池と2つの溝をつくつたとされており、そのうち「昆陽上池」が、現在の昆陽他にあたります。
 その頃、民衆のための寺院建設は法律で禁止されていました。行基のこのような民衆への活動を、政府は抑圧しましたが、徐々に認め、許可しました。そして、聖武天皇の東大寺大仏造営の際、行基をはじめその弟子たちは、活動を通じて、民衆へ大仏造営への参加を呼びかけます。
 活動に感銘を受けた人々は、行基の生前より行基菩薩*と呼びました。そして死後は、信仰の対象となります。
 行基は、生前中、49院建立したとされています。そのひとつ、堺市にある「大野寺」の仏塔はとても不思議な形です。今年、国史跡「土塔」(堺市中区土塔町/昭和28年指定)として整備が完了し、住宅地の中にお目見えしました。
 この土塔は、行基60歳の、神亀4(727)年に起工され、鎌倉時代の『行基菩薩行状絵伝』(重要文化財)には 「十三重土塔」と記された塔が描かれています。堺市によって発掘調査が行われ、ブロック状の粘土を積み上げた内側に土を盛った、高さ8m以上、一辺53m以上ある塔であることがわかりました。その土壇の全面に約6万枚の瓦が葺かれていたと考えられています。
 大野寺は室町時代に火災で焼失しましたが、江戸時代に再興され、現在まで真言宗土塔山大野寺として継続しています。
 土塔について言葉で表現して伝えようとしても、正確なイメージをしていただき難いと思います。皆さんがご存知のお寺の塔とはあまりにも外観が異なりますので。是非、一度、この土塔を見に行かれてはいかがでしょうか?行基の残したこの塔を前に、天平の世界を感じて下さい。
*布施屋…都に税物を届けにいく民衆のための簡易宿泊施設。交通の要衝に建設された。
*院………垣を巡らした建物との意味。民衆のための寺(道場)を指す。
*菩薩……本来、悟りを求めて修行をする人をいう。

(伊丹市教育委員会事務局社会教育課主査)

反骨の絵師
 「岩佐又兵衛」
豊田 正義
 有岡城と岩佐又兵衛
 戟国時代の天正五年(1577)十一月に有岡城を訪れた宣教師ルイス・フロイスは「我等は宵の口に、伊丹と称し甚だ壮大なる見事なる城に着きたる。・・彼は又新に築城せる壮麗なる城を・・」 の書簡を本国におくつている。その壮大な城も三年後の天正七年(1579)の秋に、織田信長に攻められて落城している。村重以降は池田之助が入城、天正十一年(1583)に岐阜に移ってからは、幕府の直轄地を経て、惣構えの大半が摂関家の近衛家の領地となり、城跡も時代とともに開発の手が入り変貌していった。
 近年は、昭和五十年代に国鉄伊丹駅前の再開発が計画・実施され、城跡の発掘調査が行われて、本丸の土塁跡、石垣、堀跡などの遺構が発見されて「城郭の中世から近世への移行期の貴重な遺構」として昭和五十四年十二月に国史跡の指定をうけている。
 現在、その有岡城跡公園には、荒木村重、荒木たしの文学碑がひつそりと建っている。今秋、有岡城跡は丁度、国の指定を受けて節目の三十周年を迎えようとしている。
 岩佐又兵衛は、荒木村重と荒木たしの末子として天正六年(1578)に生まれたといわれている。その年は摂津守荒木村重の絶頂期からの転換期にあたり、子供たちにとっては翌年にかけて生き延びる者、殺される者とに分かれる苦難の時代を迎えることとなった。
 村重は天正六年の秋、出陣中の三木城包囲網の陣地から突然伊丹に帰り有岡城に龍城して織田信長に謀反をおこした。信長は村重の説得に失敗、早速、十二月には数万の大軍が有岡城を攻撃したが、攻めきれずに持久戦になっていった。
 十カ月後も膠着状態が続くなか、荒木村重は状況打開のために、九月二日に援軍を求めて嫡男村次のいる尼崎城に移った。しかし、頼みの毛利軍は、海上を信長軍に封鎖されるなど身動きできない状況にあった。城主の不在を察知した信長軍は、有岡城惣構えの西側の要である上臈塚砦の武将を調略。十月十五日の深夜に城門を開けさせて、他の砦も攻撃、侍町にも火を放たれて城内は大混乱を極めたといわれる。信長軍は、堀によって区切られた本丸を意図的に攻め込まなかった。信長公記には「裸城になされたり」と記されている。
 みどり子の岩佐又兵衛は、その時に乳母にだき抱えながら有岡城本丸を脱出したといわれる。それから一カ月後の十一月十九日に、有岡城本丸は降伏した。
 有岡城跡公園の荒木村重、たしの文学碑には、本丸落城時の二人の心境をあらわしている。あらきたし「霜かれに残りて我は八重むくら なにはのうらのそこのみくつに」荒木村重「思いきやあまのかけ橋ふみならし なにはの花も夢ならむとは」
 信長軍は、本丸にたて寵もった数百名を人質に、尼崎城、花隈城の開城をせまったが、村重は石山本願寺の最前線基地としての位置付け、播州三木城が籠城中などの理由から救命条件をのまなかった。
 激怒した信長は、数百名の者を尼崎城近くの七松で処刑を断行した。残りの村重の親族三十六名(村重の子供二人を含む)を京に連行し市中引き回しのうえ、十二月十六日に六条河原で処刑した。今楊貴妃といわれた荒木たしは二首の辞世の歌を残している。「消ゆる身は 惜しむべきにもなきものを 母の思いぞ 障りとはなる」「残し置く そのみどりの子の心こそ思ひやられて悲しかりけり」母親の子供の将来を案じる心情がよくあらわれている。その子供が後に、浮世絵の元祖ともいわれ、江戸時代を代表する絵師岩佐又兵衛といわれている。又兵衛は母親とは死別、父村重とは離散という厳しい幼少期であった。

 その後の岩佐又兵衛
 有岡城を乳母と脱出した岩佐又兵衛は、京都の本願寺系の子院に身を隠したとされる。本能寺の変までの織田信長存命中は、信長は自分に楯突いた荒木の残党狩りをしきりにおこなっていた。高野山が荒木の残党を匿ったとの理由で各地で活動していた高野聖千数百名を処刑している。そんな状況下で又兵衛は荒木など名乗れるわけがなく、母方か乳母の姓を名乗ったものとおもわれる。
 又兵衛は幼少期から和漢を学び、絵も村重家臣の子であった狩野内膳に師事したといわれる。八歳の時には豊臣秀吉の京北野天満境内での北野大茶会ものぞいたり、摂関家の二条家にも出入りの記録があり幅広い教養を身につけていたようだ。荒木村重存命中(天正十四年没・又兵衛七〜八歳)に親子の対面があったのかは記録がなく想像の域をでない。
 一時、武士(秀吉配下の織田信雄の小姓説)を目指したがあきらめて天性の絵の道にすすんだ。そこでは当時絵の主流であった狩野派、土佐派と交流を深めながら独自の画風を残したとされる。又兵衛は人生の大半を京で絵師として過ごしたが、京時代の代表作は「洛中洛外図屏風」(舟木本・東京国立博物館)「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館) があげられる。
 四十歳の時、本願寺の緑でひとつの転機が訪れた。親交のあった本願寺務めの僧心願から北之庄(福井市)に招かれて同行する。同地の興宗寺に寄寓し絵師として活躍する。福井藩は、徳川家康次男の結城秀康が初代藩主の六十八万石の大藩で、二代藩主松平忠直、三代松平忠昌(忠直の弟)の庇護をうけて多くの絵巻物など作品を残している。『息直卿行状記(菊池寛作)』で有名な藩主とは気脈が通じるものがあったようである。赴任時の様子として「今日大橋の上にて威風なる男に逢い申し候、緋縮緬の股引をはき居ると申す。それは浮世又平なるべし。又平当国へ来る筈也と仰せけるが、果たして又平にてありれると也」(福井の文献「越翁夜話」)が残されている。北之庄時代の又兵衛は円熟期に入り絵師として一定の評価をうけていた。長大な絵巻物は一人の技では困難とされ絵師を束ねる工房を設けていたといわれる。その名声は江戸にも伝わっていた。その絵巻物の大作「山中常盤物語絵巻」(MOA美術館)「堀江物語絵巻」(香雪美術館)「小栗判官絵巻」(宮内庁三の丸美術館)「上浄瑠璃物語絵巻」(MOA美術館)などは、その時代の作品といわれている。
 還歴の時、再び転機がおとずれた。寛永十四年(1637)二月に三代将軍家光に招かれて単身江戸に向かった。旅日記の廻国道之記によると福井をたち京で十日程過ごして江戸に下っている。格調高い内容である。しかし、三島宿以降が欠落している。
 江戸には幕府のお抱え絵師の狩野派が多数おり、江戸城本丸の建築中の時期でもあり絵師の絶対数が不足していたこともあるが、江戸城大奥の表使荒木(一般に荒木局と呼ばれている。又兵衛の姉?)と春日局のルートから将軍への推挙も考えられる。表使荒木は幕府が編纂した寛政重修諸家諸によれば村重息女二人が本願寺人質となっている。本願寺の人質とは別にもう一人の息女として「崇源院殿(将軍秀忠夫人)及び大猷院殿(将軍家光)に仕へたてまつり、荒木と称す」と記されている。何処で育ったのか不明、しかし大奥の中枢部で長年仕えているので相当の教養を身につけていたとおもわれる。
 江戸では、将軍家光の娘千代姫が尾張徳川家に輿入れの調度品の製作に携わっている。寛永十四年(1637)川越東照宮が焼失。そこの三十六仙絵の話があり製作に取り組んだりして、次々と大名などからの仕事が舞い込み大車輪の活躍をする。
 晩年は持病の「おこり(熱病の一種)」に苦しめられている。この時期に自画像を福井の妻に送っている。その絵はやせて少しヤツレタ感じで椅子に掛けて右手に長い杖を持っている全身像である。後方には薙刀が置かれ武士の出としての誇りをもっていた。福井を単身で離れて十三年後の慶安三年(1650)に江戸で七十三歳で没した。
 又兵衛の希望で、骨は二つの骨壷に入れられ福井に送られた。その一つに墨書で荒木と書かれていたという。

 岩佐又兵衛の絵
 岩佐又兵衛は、生存中から人気絵師で「浮世又兵衛」と呼ばれたり、後に近松門左衛門の浄瑠璃「傾城反魂香」の吃又のモデルとしても有名であった。画風は当時の主流である狩野派、土佐派に属さずそれぞれの画風を取り入れて独自のものを確立したといわれる。特に、又兵衛の絵に登場する人物像は
 男女ともにふっくらとした頬と下顎の長い顔と足先のそりかえつた動的な描写などが特徴とされる。
 岩佐又兵衛の真骨頂は、御伽草子、古浄瑠璃を題材にした多数の絵巻物語にある。内容の大半が劇的なものである。代表作として「山中常盤物語絵巻」があげられる。それは十二巻構成の極色彩で全長百五十メートルの壮大なものである。絵巻には古浄瑠璃の歌詞が添えられている。出所は越前桧平家を祖とする津山藩に伝わったものである。
 物語は、年若い牛若丸が奥州平泉の藤原氏に迎えられていた。京の常盤御前は息子の牛若丸会いたさに侍従とともに平泉に向う途中、中山道の山中宿で盗賊に命を奪われる。牛若丸が山中宿に行き母の仇である盗賊を討つ物語である。常盤御前が殺される描写にスペースをさき、盗賊を討つ修羅場の場面はすざましい。
 岩佐又兵衛は、母親たしが織田信長によって処刑された怨念が、時は戦国時代から平和な江戸時代に推移するなかで絵巻を通じて仇討ちの思いを果たしたといえる。
 「堀江物語絵巻」も堀江家の親の仇討ちとお家再興の物語である。子供の太郎(月若)が幼少の頃に国司に殺されそうとなったときに乳母に救われて奥州に匿われる場面なども素晴らしい内容の作品である。

参 考 文 献
○荒木村重史料 伊丹資料叢書四
○『村重』第七号 荒木村重研究会会報
○岩佐派のゆくえ 福井県立美術館
○奇想の系譜 ちくま学芸文庫 辻 惟雄
○岩佐又兵衛 文春新書 辻 惟雄
○芸術新潮 10 2004 新潮社
○週刊アーティストジャパン
  岩佐又兵衛 40 デアゴステイー二
〇絵巻 山中常盤 解説・資料 自由工房
○謎と伝説の絵師 岩佐又兵衛
  日経新聞 1997.2.9〜2.23
0NHKハイビジョン特集 天才画家の肖像
  「伝説となつた絵師 岩佐又兵衛」

(伊丹市文化財保存協会 理事)

“歴史上の人物と伊丹”について
「緒方洪庵に関係する人の伊丹における活躍」
益尾 宏之

 一 はじめに
 これまでの歴史の舞台に登場した人物の内、伊丹にゆかりのある人として「絲海」三二号では「伊能忠敬と伊丹」を、三三号では「天誅組 伴林光平の伊丹における足跡」についてとりあげた。今回は直接、伊丹に来たことは確認されていないが、その関係者が活躍した人として緒方洪庵(一八一〇〜一八六三)をとりあげたい。「絲海」三三号では西宮で生まれて伊丹で活躍した原老柳(一七八三〜一八五四)を「緒方洪庵の門弟」と書いたが、門弟ではないので「緒方洪庵に関係する人」に訂正したい。「学の緒方に技の老柳」言われており、緒方洪庵と原老柳は同格であり、その活躍年代は少しずれている。(1)  参考文献等 (1)古西義麿「原老柳死亡前後の動向について」日本医史学会関西支部「医渾」復刊第八十七号、九十二〜九十七頁、平成二十年三月

 二 緒方洪庵について
 緒方洪庵が天保八年(一八三八)に大坂に出て瓦町に蘭学塾・適塾を開くまでの主な経過は次の通りである。
 緒方洪庵は、文化七年(一八一〇)備中国足守(現岡山市足守)で足守藩士・佐伯惟因とキョウの三男として生まれた。十五歳で父と共に大坂に出て、十六歳の時に大坂の蘭学者・中天源の塾に学び、緒方三平と名乗る。
 十八歳で蘭学修業のため、江戸に向かう。二十一歳で江戸に入り、蘭学者・坪井信道の塾で学び、蘭医の宇田川榛斎にも学ぶ。二十五歳の時に中天游が死去し、その塾で蘭学を学ぶため大坂に赴く。二十六歳のときに中天游の子・耕介を伴い長崎修行に出る。この時から緒方洪庵と名乗る。一年後に長崎での勉学をおえ、足守に帰省する。
 三十六歳の時に適塾を過書町に移転する。
 緒方洪庵が最初に種痘に関わったのは適塾を開く少し前に兄の子に人痘種痘を行い、成功、嘉永元年(一八四八)に長崎のオランダ商館付医師・モーニッケの元に牛痘がもたらされた。
 嘉永二年(一八四九)に牛痘苗を笠原自翁に分けてもらい、以後、古手町の大坂除痘館で牛痘種痘法の普及に努める。(1)

参考文献等
(1)適塾記念会編集・発行「緒方洪庵と適塾」
 平成五年六月五十八〜六十一頁

 三 適塾・種痘と伊丹との関わり
(一)適塾
 適塾に入門した門下生の「姓名録」には北海道から九州まで全国の六三六名の名が残されている。その中には幕末から明治にかけて各方面に目ざましい活躍をして日本の近代化に大きな貢献を果たした人が多い。例えば大村益次郎、福沢諭吉が含まれている。
 「姓名録」に基づく都道府県別の塾生名簿がありその内兵庫県県の出身者は三十三人である。(1)
 その具体的な氏名を「都道府県別 適々斎塾生姓名録」(2)で当たってみた。摂州の出身者は四人いるが、伊丹の人は見当たらない。
 ただ、今も続けられている適塾記念会による「適塾門下生に関する調査報告」で伊丹の関係者がみつかるかもしれない。(3)

参考文献等
(1)適塾記念会「緒方洪庵と適塾」五十六、五十七頁
(2)適塾記念会「都道府県別 適々斎塾姓名録」
(3)芝哲夫「適塾門下生に関する調査報告」(二十八)
 適塾記念会「適塾」第四十一号 平成二十年十二月

(二)大坂除痘館と伊丹との係り
(1)小松来青
 緒方洪庵の功績の一つに嘉永二年(一八四九)種痘専門の施設「大坂除痘館」を大坂在住の医師十数人と開設したことが挙げられる。
 大坂除痘館が関東・中部地方から九州地方までで嘉永二年(一八四九)十一月、明治二年(一八六九)二月までに分苗(一種痘ワクチンの分与)した医師名簿百八十六名の中に嘉永五年(一八五二)一月に「摂州昆陽村 小松来青」が含まれている。(1)
 大坂除痘館については古西義麿除痘館資料室専門委員が平成十四年に「緒方洪庵と大坂の除瘡館」(東方出版)で長年の研究成果をまとめられた。そこでは嘉永二年から明治二年の間に分苗を受けた分苗所の現地調査が一部に留まっていたので、残されていた現地調査を平成十五年より実施され、全調査をまとめためたものを平成十七年と平成十八年に「大坂の除瘡館」分苗所調査報告(I)(2)として「適塾」NO三八・三九(適塾記念会)で発表された。
 それによると大坂の除瘡館百八十六名の内緒方洪庵の門人・知人が三十名、原老柳の門人・知人十五名の四十五名で全体の二四%を占めている。
 一八六名の身分は現在のところ藩士が十名、藩医が十七名、身分不明が四名、町医・村医が九七名、不明が五人名との結果となっている。(2)
 小松来青は伊丹市史第二巻には万延一〜明治五年に読み書き、算術の寺子屋が昆陽村で開業されていた。その「習字師」に「小松元春(医)」の名前が載っている。小松元春は小松来青の嗣かも知れないと言われている。(3)
 小松来青は伊丹の昆陽村の分苗所だけでなく周辺の地域の分苗所との交流のあつたことが山崎利恒著「種痘と徐痘所」(稿本)でわかる。山崎利恒氏は分苗した嘉永三年一月の医師名簿に載っている「摂州米谷の山崎倦司」の孫である。山崎健司は摂津国川辺郡米谷(まいたに)村で嘉永三年から十七年間に医業のかたわら分苗所を開いて種痘活動に尽力してきた。彼は適塾には入門していないが、洪庵とは様々の関係で親しい間柄にあった。(4)
 山崎倦司は除瘡館から分苗を受けて種痘に携わると共に、近郊の医師は分苗に努め、涙ぐましいような活動を続けていた。(5)
 名塩の億川信哉から山崎健司への書簡では次のようになっている。
 「貴翰這仕候時下薄暑之節御座候得共先以高堂皆様
  御揃益々御多祥被為在御起居珍重不斜奉賀候、然
  らば明遡日昆陽池孫太郎茶屋店に集合致皮候間早
  朝より御出掛可被下尤も
  小松(昆陽)、高橋(池田)、名川(麻田)、山中(小
  浜)、吉田(西宮)、緒方(尼)、瀬田(高槻)、十七、
  八人種痘社中の集会に御座候間是非々々御出席被
  下候、尚々小生明日御尋申上候、

  先は右御案内迄 勿々 如此御座候、謹言
                  億川 拝
      卯月廿九日
 山崎老兄
     玉机下  (6)

 この書簡から伊丹の昆陽村には大坂除痘館の分苗所の一つがあり、昆陽村の 「太郎茶屋」で分苗に関する集会が開かれていたことが分かる。この「太郎茶屋」は「文化三年昆陽池付近絵図」で昆陽大池の西側で有馬道と行基道の交差する付近にある「大池茶屋」と思われる。そこは西宮・宝塚・尼崎から集まって伊丹で分宙についての会合には都合のよいところであった。(7)
 伊丹の昆陽村以外で分苗所があったという記録はないが明治九年の伊丹市野間文書「種痘人員調書」によれば幕末の安政や文久年間に種痘した記録がある。又、同年三月の種痘通知券があり、伊丹町内と北村で種痘を接種したことが分かるが、いずれも種痘医は不明である。(8)
 伊丹市史第三巻では明治維新の文明化に衛生問題として明治初年以来、種痘を奨励していることがたびたびあったと指摘している。(9)
 明治二年一月から八月まで、現在の摂津市、豊中市に園田村を加えた地域を摂津県と呼称していた時期があった。園田村には一部現在の伊丹市が含まれていた。(10)
 当時一般に種痘は恐れられていたからので摂津県においても次の触書が村々に出された。

種痘之儀ハ天下之良法二候処、愚昧之者共兎角狐疑拍車、自然痘ヲ以
テ犬死為致候者不少以之外事二候。向後別紙申達候通、御雇医師廻村
之槻申出之上速二種痘相請可申。若此上相疑候モノ有之ニオヰテハ訖
度可及沙汰者也。

 明治二年の巡回種痘医四人には緒方洪庵の四女八千代を妻とする緒方拙斎が含まれていた。四人の巡回種痘医師は村々に派遣された。村々では寺院や惣代の私宅を診療所にあて、患者の治療と種痘を行った。(11)(12)

 参考文献等
 (1)前載「緒方洪庵と適塾」三十八頁
 (2)古西義麿「大坂の除痘館」分苗所調査報告書(1)
  「適塾」第三十八号一二、一一二頁
  平成十七年  (3)伊丹市史第二巻五一七頁、内堀睦夫「榎の樹の下
  寺子屋から小学校へ−ふるさとの教育史−
  小西酒造(株) 「伊丹歴史探訪」三八〇頁
 (4)山崎利恒「種痘と除瘡所」一頁
 (5)同三頁
 (6)同三頁
 (7)「文化三年昆陽池付近絵図」「伊丹古絵図集成」
  本編 伊丹資料叢書六 九六頁
 (8)古西義麿「大坂の除痘館」分苗所調査報告書(2)
  「通塾」第三十九号一六一頁
 (9)伊丹市史第三巻一三九、一四〇頁
 (10)猪名の会「園田のあゆみ」六二〜六七頁
 (11)前載伊丹市史第三巻一四〇頁
 (12)川辺郡医師会編「川辺郡医師会史」 二八八頁
  前載「大坂の除痘館」分苗所調査報告書 (1)
 一〇一頁

 (2)原老柳
 「学の緒方に技の老柳」と言われた原老柳は天明三年(一七八三)二月十三日、西宮札場筋で生まれる。伊丹で開業したのは文化十四年(一八一七)で、その間に江戸と長崎に遊学する。
 伊丹では多田街道と有馬道の分岐点に近い伊丹郷町で「医処 老柳」の看板を掛ける。
 文政八年(一八二五)大坂、道修町五丁目で開業。
 天保三年(一八三二)医師番付に登場、天保十一年(一八四〇)西大関に。緒方洪庵は東前頭四枚目。
 天保十五年二月「当時町請医師見立」では大坂に再移住したこの年から学塾「樹人洞」を開く。『原老柳門譜』に記載されている時代は、天保元年 (一八三〇)からで、一三二人が名を連ねている。出身地は大坂周辺が圧倒的であり、伊丹出身は上杉順太郎、同南一郎、山脇建隆が含まれている。
 嘉永二年(一八四九)大坂除瘡館の創設に緒方洪庵、日野葛民・大和屋嘉兵衛が中心となって創設された。この除痘館創設に十数名の同士が賛同しているが、その中に原老柳が含まれている。(1)
 老柳は医者だけでなく酒と文化を求めて来伊した文人と幅広く交流した。その中で最も知られているのが儒学者・漢詩人・歴史家の頼山陽である。頼山陽は文政十二年(一八二九)十月二十三日、母の梅颸・篠崎小竹・田能村竹田・高橋草坪らとともに来伊し、箕面に紅葉狩りをした。(2)(3)
 老柳は黒揮翁の和歌の弟子であり、篠崎小竹とも親しくしていたので伊丹の酒「男山」を愛酒した頼山陽と伊丹をつなげている。(4)
 頼山陽は文政四年(一八二一)八月九日、山陽の高弟で小竹の女婿である後藤桧陰に、次のように書いている。
 −伊丹紙屋本家の菊という印の酒を送ってくれるよう、原老柳に頼んで欲しい。・・・これは常飲の酒ではない。凡そ口腹のことで人を煩わすのは慚愧の至りであるが、呉々お返事待つ。
(新選山陽書簡集) (5)
 老柳が古稀記念の祝返しとして配り物をした記録「原老柳古稀配物」が残されている。(嘉永五年(一八三二)(6)そこには老柳が開業していた伊丹郷からは伊丹、三十六人をはじめ、西裏、東裏、堺丁、米屋丁、三本松、昆陽口、横手、本丁通、関連者を一括して百二十六人になる。伊丹以外では西宮、池田等を含めて二百二十三人に及んでおり、伊丹の関係者が半分近くを占めている。(7) 出席者の内訳は「原老柳古稀配物」の付属資料に載っている。(8)

 参考文献等
 (1)松本順司「原老柳の生涯−幕末の名医」
 (2)伊丹市立博物館市制三十五年記念第七回特別展
  「頼山陽と伊丹 酒の町に招かれた文人たち」
  昭和五十年十月二十四日
 (3)柿衛文庫 開館二十五周年記念特別展「酒都伊丹
  につどうー詩人・俳人・画人たち」十二頁
  平成二十一年四月十八日
 (4)前載「原老柳の生涯−幕末の名医」七七頁
 (5)同七八頁
 (6)前載「緒方洪庵と大坂の除瘡館」一〇五頁
 (7)同一〇五頁
 (8)同一二三〜一二五頁

 (3)原鼎
 文化六年(一八〇九)に原老柳の長男として西宮で生まれる。
 文政八年(一八二五)父の老柳が大坂の道修町で開業して、伊丹の診療所をその出張所とした後を継ぐ。(1)
   「四十三歳大坂二移住シ、伊丹ノ家ヲ出
 張所トナシ」「介庵(原老柳長男、名は鼎)
 伊丹ノ家ヲ続キ業ヲ開ク」(2)
 (「原家系略譜」)
 原老柳が大坂除瘡館で活躍しているのを受け、大坂除癒館の「諸国分苗所」の一つとして伊丹の診療所は位置づけられている。(3)
 嘉永二年(一八二九)十一月にが分苗されたのをはじめ併せて十五人になる。(4)

 参考文献等
 (1)前載「緒方洪庵と大坂の除瘡館」一六八頁
 (2)同一〇八頁
 (3)同四四頁
 (4)同一一九頁

四 除瘡館記念資料室
 除瘡館記念資料室が平成十九年三月二十九日、大阪市中央区今橋三丁目緒方ビルクリニックセンター四階に開室した。(洪庵記念会、旧緒方産婦人科病院、適塾の後ろで南側に当たる)この記念資料室は先に述べた「大坂の徐瘡館」の顕彰施設として設置された。
 展示室の面積は五十平方メートルで、周囲に展示ケースが配置されている。入口左側はジェンナーの牛痘種痘法発見に至る関係資料やジェンナー像を掲げているが、全体の四分の三は緒方洪庵らが設立した除痘館関係資料である。
 入口右側の最初は、洪庵が万延元年に書き残した「徐痘館記録」や徐痘館に残されていた古文書を明治未年に翻刻した「大阪市種痘歴史」などを展示している。
 続く展示は洪庵の肖像画や、洪庵の種痘を讃える漢詩を掲げる。同じ展示ケースの下段には徐痘館に関する主要文書があり、種痘勧奨の引き札や種痘後の心得等があり、牛痘苗の分宙免状も数店ある。(1)

 参考文献等
 (1)古西義麿「除痘館記念資料室」オープン
  「大阪春秋」一二九号 十七頁 平成二十年一月

五 おわりに
 緒方洪庵の開いた適塾の「姓名録」に直接伊丹の出身者及びその関係者は今のところ不明である。今年平成二十一年の四月二十九日から六月十四日までの伊丹市立博物館の春季テーマ展「南野 旧村シリーズ第五弾〜領主・村医者・むぎわら音頭〜」が開催された。そこで南野村の在村医・笹山寿仙の史料の中に緒方洪庵の研究書「虎狼痢治準」の写しと思われるものがあった。幕末のコレラの流行に対して緒方洪庵が独自に研究したものである。南野村の在村医が緒方洪庵の研究内容に関心のあったことが分かる。
 「笹山家文書」の「諸事控」では南野村の在村医は南野だけでなく野間、昆陽村、寺本、富松(現尼崎市)にも診察に行った事が分かる。
 この「笹山家文書」については平成十年三月伊丹市立博物館「地域研究いたみ」第二七号で横田冬彦さんが「江戸時代の在村医−伊丹市南野・笹山家の資料から−」を研究発表されている。それによると江戸時代には南野村だけでなく伊丹郷町にも十数人の医者がいて地域のとも交流していたことを指摘している。その中に原老柳、原鼎も含まれているものと思われる。
 在村医は庄屋さんとか惣年寄とかだけでなく、村の寺子屋の師匠、村のお坊さんや禅主とか、村の上層部の人たちと一体の活動をしていることを指摘している。(1)
 今回は緒方洪庵に関係する人の伊丹の活躍を概観した。昆陽村、野間の具体的な医者については分からなかった。幕末から明治にかけての伊丹を含めた川辺郡の医師の活動について「川辺郡医師会史」、伊丹市史等を参考にした。その詳細については今後の関係資料の研究に待ちたい。
 拙文については私なりに昨年来関係資料を収集することから始めた。その初期の段階から除痘館資料室専門委員・文学博士の古西義麿さんに的確なアドバイスをいただいた。特に貴重な資料山崎利憶著「種痘と徐癒所」(稿本)の写しは、伊丹の昆陽村小松来青の地域を越えた活躍を知るのに役立った。又、前栽「大坂の除瘡館」分苗所調査報告(I)(2)「緒方洪庵と大坂の除瘡館」を常に参考にさせていただいた。不十分ながらも何とかまとめることができたことに御礼申し上げます。

 参考文献等
 (1)前載 「地域研究 いたみ」第二七号六九、七十頁

(伊丹市文化財保存協会 会員)

江戸後期の郷土史家
〜古野将盈と梶曲阜〜
小長谷 正治

 手許に『糸海史談』の復刊第一号がある。これは昭和三十五年に伊丹史談会によって編集・刊行されたものだ。伊丹史談会は、昭和二十五年四月に小林杖吉(丹城)を会長、尾上日経を理事として発足。以来郷土伊丹の歴史の顕彰を目的とし、講演会・史跡めぐり・伊丹史料展等を開催してきた。その発足十周年を記念して刊行されたものが糸海史談である。当初会を主宰した杖吉は、伊丹町の宮前通りに私立伊丹図書館を設立したことでも有名で、明治四十五年六月、私蔵図書五千冊をもって開館している。明治末年、阪神間では神戸市立図書館とこの伊丹図書館のみであったというから、その存在は遠くまで知られていた。大正三年には巡回文庫を始め、蔵書も四万冊におよんだが、経営的に振るわなくなり、昭和十一年から休館が続き、同十八年には廃止されたという。しかし、杖吉は、休館を決めた昭和十一年から、タブロイド版『郷土研究伊丹公論』の刊行を始めている。その第一号(一月二十日刊)冒頭の「創刊之辞」の一部を引用すると、「郷土研究の必要を痛感して己まず。三十有余年来史料の蒐集に務めたる予は、更に進んで我が郷土の懐かしき昔の姿、我が郷土の正しき歴史乃至我が郷土に於ける慕はしき先賢の事蹟を調査し、之を研究して見たいと思ひ、乃ち同志と相謀りてここに本紙を刊行することにした」と、その強い決意のほどを述べている。第三号からは『郷土研究伊丹』と名称を改め、同十一年は毎月(十一・十二月は不明)、翌十二年から十五年は年二〜三回発刊している。
 さて、『郷土研究伊丹』の刊行を続けていた同十三年、杖吉は『伊丹古野家系譜略』(博物館所蔵)という古野家の系図を作成している。古野家からは、江戸後期の郷土史家古野将盈が出ている。将盈は、古い記録をもとに伊丹郷町の歴史を編纂した『有岡庄年代秘記』や伊丹郷町の名所地図『摂州伊丹独案内図』などを遺しており、系図作成の動機としては、郷土史家としての「先賢の事蹟」を顕彰しょうとする杖吉の強い思いがあったからと思う。系図の後書きによると、作成にあたり正覚寺過去帳、同回向録のほか親族の小結家・小林家の過去帳および位牌まで参照したと記されており、杖吉の並々ならぬ熱意と執念を感じさせる。この系図によれば、安倉村の喜兵衛の二男源兵衛が伊丹堺町に分家したことに始まり、屋号は糀屋、当主は代々糀屋源兵衛を襲名している。将盈は三代源兵衛の五男として明和九年(一七七二)二月二十二日に生まれたが、母常が同日死亡したため、鴻池村の吉兵衛のもとで養育されることになった。ところが、糀屋の家督を継いだ長兄の四代源兵衛が二才の子(邦好)を遺して亡くなったため、将盈が五代目源兵衛を継ぐことになった。系図には「将盈博識多才・・・最精於郷両署有岡年代秘記、有岡奮考、酒造蕾新岡絵図、同付録等」と彼の著作が詳しくれている。このうち最も代表的な著作は前述した『有岡庄年代秘記』(京都大学文学部蔵所蔵)で、伊丹郷町所在の寺院の開基年を記した「丹丘寺院開基年考」、南北朝時代の貞治年間から江戸前期の万治年間までの伊丹の出来事を記した「伊丹往古年記」、それに続いて寛文年間から江戸後期の文政二年までの伊丹郷町史を詳細に記した「有岡年代秘記」の三篇が所収されている。このうち有岡年代秘記には、伊丹郷町でおこった様々な出来事が年表形式で簡潔に記され、現在でも江戸時代の伊丹郷町研究には書かせない一書となっている。
 将盈は多くの重要な著作を遺しながら、生没年を含め、来歴も長らく不詳であったが、杖吉による将盈顕彰の努力によって明らかになつたのである。岡田利兵衛も『伊丹市史』の中で「彼は尚古のたしなみふかく、『有岡庄年代秘記』以下、多数を編著し伊丹懐古に貢献した」と、郷土史家としての将盈を高く評価している。
 将盈と同時代を生きた人に梶曲阜がいた。曲阜は、将盈より二十六年後の寛政十一年(一七九九)に、伊丹で生まれた。梶家系図録(文化財保存協会所蔵 博物館寄託)によると、梶家はもと小畑六兵衛といって東桑津に住していたが、後に津田氏を名のり曲阜の曽祖父の代から伊丹伊勢町に移り住んだ。祖父金兵衛の代に姓を梶と改めたという。屋号は大和田屋で、曲阜も大和田屋金兵衛と称した。曲阜は照顔斎と号しているが、これは彼が敬慕する俳人鬼貫を赤い顔と解して自らを「てる顔」と称したという。家業のかたわら俳句にも通じ、安政三年には二条殿から俳諸宗匠として官服御免許の待遇をうけている。曲阜は伊丹の俳人としての大先輩である鬼貫を顕彰するため、鬼貫の遺墨をもとに伊丹や近郊に七基の句碑を建てたが、俳語にとどまらず、伊丹の歴史にも強い関心を示している。彼の編著による『有岡古続語』(博物館所蔵)は、乾坤二冊の折本で、『伊丹荒木軍記』とともに一つの箱に収められている。有岡古続語には、西谷午贏の「有岡むかし語」・「有岡むかし語余禄」、古野将盈の「三本松之記」を転載したほか、曲阜自らの見聞による著作を収載している。その内容は、地名の由来、野宮、伊丹城、俳語、鬼貫のことから、当時流行していた能狂言、角力、酒呑のことまで実に多岐にわたっている。また「伊丹酒家盛衰の事」は、幕末の伊丹の酒造業の状況を伝える史料として価値が高く、正に江戸時代の伊丹郷町史といえるものである。
 曲阜は、将盈について『有岡古続語』のなかで次のように述べている。「此将盈といへるハ往年大庄屋勤められし糀屋源兵衛といへる人なり、曽て在岡旧考といへる一巻の著述あり、よく此里のふるき事跡を探索して記し置けり、苗字を古野といへり、堺町に糀屋何某といへるハその子孫なり、この三本松の記借りくれる人、将盈とハ何人なることをしらさりけれはいささか記しぬなり」。将盈は、兄の子邦好が長じると家督を譲り、出家して多田院村の西方寺十二世の法灯を継ぎ、天保八年(一八三七)に六五歳で亡くなっている。
 曲阜が『有岡古続語』を編纂した元治二年(一八六五)の二十八年も前に将盈はこの世を去っており、「三本松之記」も子孫から借りたというから、親交があったとは思えないが、将盈と曲阜、ほぼ同時代を生きた伊丹の二人の郷土史家、彼らの遺してくれた著作は、今も郷土伊丹を知る上で大きく貢献している。

(伊丹市立博物館長)