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目次
・平城京遷都1300年に際して ………………………………………………1
・伊丹郷町の氏神 猪名野神社………………………………………………2〜5
・「伊丹市の文化財保存に功績のあった山本賢之助さんの歩み」………6〜10
・日本第一の鳥瞰画叟 吉田初三郎画 『伊丹市鳥瞰図』………………11〜12
・博物館からのお知らせ 夏季企画展………………………………………12
・事業の計画、回顧・編集後記………………………………………………13〜16

平城京遷都1300年に際して
中畔 明日香

 今年は平城京遷都1300年を数えます。世界遺産であり、また国指定特別史跡である「平城宮跡」(現‥奈良市)を中心にして平城遷都1300年祭が始まりました。「なんときれいな平城京」というフレーズで、平城京遷都は西暦710年と、また、「なくようぐいす平安京」と平安京遷都794年を覚えたものです。
 しかし、桓武天皇の平安京遷都と違い、平城京の遷都時の「天皇は誰?」と、遷都の立役者である天皇自身がもうひとつメジャーではありません。1300年祭の会場には、きっとその間いに対する答えがあるでしょうが、行かないとわからないでは困りますので、お答えします。都は、藤原京(現・橿原市)から移りました。時の天皇は、元明天皇です。奈良の都というと聖武天皇のイメージが強いのですが×。
 平城京に遷都してから長岡京に移る784年までを奈良時代と呼んでいますが、その時代は、平城京だけでなく、難波・恭仁・紫香楽と、都は何度も遷されました。その首謀者こそ、聖武天皇(在位724ー749)です。彼は遷都を繰り替えし、最後に落ち着き、戻ったのが平城京でした。諸国に建てた国分寺の、総国分寺となる「東大寺」に大仏(国宝「銅造盧舎那仏坐像」)を造ります。日本に仏教が公的に伝来したとされる552年の200年後にあたる752年、盛大な開眼供養が開かれます。その大仏建立を助けたのが、僧行基です。
 平城京遷都710年、行基は43歳。その当時、国家による統制のもと運営されていた寺院とは違い、庶民を救うために仏教を広め、同時に土木技術を駆使し、畿内各地において、池・溝を造り、田畑を開墾し、救済のための施設建設に尽くしました。国は、行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧しました。
 731年、行基64歳、摂津国河辺郡山本里に「昆陽施院」は施工され、他に、「昆陽上池・下地」や溝(同山本里)、「昆陽布施屋」(同昆陽里)が築かれました。(詳細は前号「絲海第34号」に記載。合わせてご覧下さい。)
 やがて国は、行基の行動を認め、大仏造営に対し「勧進役」に、その2年後、745年、行基78歳の時、「大僧正」に任じます。
 奈良時代、現在の伊丹市全域は摂津国の一部でした。さらにそれを郡に分けると、川辺郡・武庫郡・豊島郡の3つに分かれます。本市では寺本・山田・野間のあたりは武庫郡に、下河原・中村・東桑津・西桑津のあたりは豊島郡に、あとは川辺郡に属していました。
 川辺郡は、その名のとおり、「川の辺」にあたる猪名川流域に広がるエリア(現・猪名川町、川西・伊丹・尼崎市)に位置します。そして、現在の伊丹・尼崎にまたがる猪名野の地に拠点を置いていたと考えられる「猪名部」は、大和朝廷の頃から、秀でた建築・土木技術をもって、中央に仕えました。奈良時代、中央に出仕した猪名部もいたことが続日本紀などに記載されています。猪名部は、行基集団とともに、猪名野開発に努め、また東大寺大仏造立にも携わったことが考えられています。
 さて、今回の事業に合わせて、文化庁が2001年度から復元した「平城宮第1次大極殿」は、東西44m、南北19・5m、高さ27mで、総工費は約180億円!現在の宮大工・瓦職人の技術、美術・工芸の集大成。また、あまり知られていませんが、基壇(きだん)内には最新の免震技術が駆使されています。
 是非、この1300年祭に参加して、過去・現在・未来を結ぶ《奈良》の歴史・文化を体感してみてはいかがでしょうか。

*基壇…社寺建築などの礎石が配置される最下部の壇状部分。

(伊丹市教育委員会事務局生涯学習部 主査)

伊丹郷町の氏神 猪名野神社
山本 喜輿士
 猪名野神社の歴史

 猪名野神社は伊丹郷町全体の氏神で、伊丹郷町の北端にあり、古くは野ノ宮、天王ノ宮、牛頭天王、祇園社などと称していた。野ノ宮と称するのは、猪名野ノ宮の意味で、祭神は猪名野坐大神と称し、素蓋鳴尊が祀られている。ここに神社が祀られたのは、延喜四年(九〇四)猪名寺(尼崎市)から現在地に移ったものと伝えられている。
 有岡(伊丹)城が廃城となつた天正十一年(一五八三)以後、伊丹に残る最も古い絵図、文禄年間(一五九二−九六)の様子を後年描き写されたといわれている絵図には既に牛頭天王として記されており、また寛文九年(一六六九)の絵図にほ真言宗野宮寺と描かれている。
 寛政年間(一七八九−一八〇一)に発行された『摂津名所図会』巻之六(下図参照)には、見開きで「伊丹野宮牛頭天皇」として神社の絵図が掲載されており、その解説には、「伊丹天王町*にあり、古 豊桜崎宮と称す。後世猪名野の中なれば、俗称して野宮といふ。鳥居の額『牛頭天王』は近衛家煕公*の筆。例祭八月二十三日。近隣十四村の産土神とす」とあり、寛文元年(一六六一)伊丹郷町の領主となった近衛家の保護もあって、郷町全体の氏神としてあがめられ、明治二年(一八六九)の神仏分離で野宮牛頭天王を猪名野神社と改められた。
 *天王町は、元禄年間(一六八八〜一七〇二)に成立した町で、門前西側にあり、宮西といわれ、昭和初年頃までは、門前町の意味で、宮ノ前通りの一部を含めて宮西の地名であったといわれている。昭和二十八年頃の小字では、この地域は桜崎と称されていた(『絲海』第32号参照)。
 *近衛家煕公 (一六六九〜一七三六)
  『牛頭天王』額は、貞享二年(一六八五)本殿再建を祝して貞享三年六月に奉納された。

 猪名野神社の社殿と境内神社

 現在の本殿は、素木造りの向唐破風付春日造りで、屋根は檜皮葺、本殿の前面に接して幣殿と正面に唐破風を付けた千鳥破風付き本瓦葺きの拝殿を備えた雄大で美しい建築である。
 「猪名野神社史」(以後「神社史」)を要約すると、本殿は、慶長六年(一六〇一)、豊臣秀頼公の命により再興され、屋根は板葺きで、梁行九尺五寸(約二・九メートル)、桁行八尺五寸(約二・六メートル)、本殿の四方に玉垣があったとされ、貞享二年(一六八五)再建の本殿は、一丈(約三メートル)四方、屋根は板茸で、周囲に玉垣がめぐらされていたと記されている。
 正徳四年(一七一四)本殿屋根を檜皮葺に葺替られたとの記載があり、寛政元年(一七八九)から五年にかけての屋根葺替事業が行われ、「有岡庄年代秘記」によると、本殿を北に二間半(約四・五メートル)移動し、寛政五年九月十八日に遷宮したと記載されている。
 幣殿は、貞享二年本殿ならびに拝殿との間に新築され、梁行二間半、桁行三間(約五・五メートル)の瓦葺である。
 現在の拝殿は、入母屋造、千鳥破風、唐破風付、瓦葺、梁行三間九寸(約五・五メートル)、桁行五間四分(約九・一メートル)三方縁側行欄付、向拝付で、幣殿に接続している。
 「神社史」によると、慶長六年、梁行三間、桁行五間、瓦葺破風造で建築され、正徳四年(一七一四)に再建された。
 貞享二年の文書では、梁行三間、桁行五間。元禄五年(一六九二)の文書では、梁行三間、桁行六間。正徳年中の文書では「有来候拝殿、梁行三間、桁行六間、破風造、瓦葺。とあれば、桁行間数相違有れど慶長、貞享代と同大なるべし」とある。なお向拝は明治十三年(一八七九)の新築で、唐破風もこの時に付けたとされている。
 本殿の南南西にある絵馬堂は、入母屋造、瓦葺で、慶長六年建築の旧拝殿を正徳四年に現在の場所に移し建てたものといわれている。
 この絵馬堂は、平成となったから腐食が激しく大修復を行い現在に至っている。しかし当神社最古の建物である。
 文化十一年(一八一四)八月、本殿と幣殿との間の東西に唐門が新築され、大祭時には開門され通り抜けが出来たが、阪神淡路大震災で倒壊し、以後再建されないまま現在に至っている。
 神域(境内)約一万五〇〇〇平方メートルの中に、素盞嗚尊を祀る本宮のほかに、護国神社・稲荷神社*(祭神 宇迦能御霊神)・大地主神社(俗称 戎社 祭神 大国主神 事代主神)・神明神社(祭神 天照大神)・相殿社(貴船神社=祭神 罔象女命・塞神社=祭神 八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神・祓戸神社=祭神 瀬織津姫神、速秋津姫神、気吹戸神、速佐須良姫神・熊野神社=祭神 伊邪那岐命、伊邪那岐命・五柱神社=祭神 正哉吾勝々速日天忽穂耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命・立田神社=祭神 志那津比古神、志那津比賣神)・愛宕神社(祭神 火之迦具土神)・佐田彦神社(祭神 大山祇命、佐田彦命、宮比賣命)・厳島神社(俗称 弁天社 祭神 佐依毘賣命、市杵島姫尊、多紀理毘賣命、金山彦命、多紀津毘賣命)・天満神社(祭神 菅原道真)・新宮神社*(俗称三社=天児屋根命、大山昨命、三筒男之命)の神社が集ういうなれば神様の団地といわれている(左図参照)。
 *稲荷神社は、平成一四年二月二日未明、放火により焼失し、平成二一年再建された。
 *新宮神社は、松尾大社、春日大社、住吉大社の三社を祀っており、文政十年(一八二七)八月近衛忠煕公の厳命により旧郡役所の地に建立されたと伝えられ、酒造家の崇敬が呼く、明治初年東京遷都に伴い、近衛家上京の際、邸内社を当神社に移されてと伝えられている。

 「神社史」及び拝殿西側回廊に掲げられている『合祀記念額』(左写真及び下図参照)によると大正三年(一九一四)から四年にかけて伊丹郷町の村々の神社が合祀されている。
 拝殿前の注連柱(石柱・前頁写真参照)には、「修理」「固成」と刻まれている。これは、『古事記』より「是に天つ神諸の命以ちて伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神に『是の多陀用幣流国を修め理り固め成せ』と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき。・・・」によるもので、昭和天皇教育係の杉浦重剛の謹書により、大阪市の村田徳松・井上次作の寄進によって大正九年五月建立されたものである。

 猪名野神社の境内

 神社の境内には、伊丹の酒造家や商人の寄進による豪華な石灯籠が並んでいる。その数は九十七基におよび、地方の神社として、これだけまとまってあるところは珍しく、当時伊丹が裕福な町だつたことを物語っている。
 調べによると、一番古い年号は、寛永二十年(一六四三)の建立で、一番新しいものは明治二十年(一八八七)である。又境内神社南端にある新宮神社の灯籠には、文政十一年(一八二八)当時領主だった近衛家の奉行四人の名が刻まれており、伊丹郷町と近衛家とのつながりを示す遺品として貴重なものである(『地域研究 いたみ』)。
 境内には老樹や巨木が多く、いわば鎮守の森を形成している。中でもムクロジは市指定天然記念物となっており、樹高約十三・五メートル、枝張り東西約十四メートル、南北約十二メートル、根張り九十五センチメートルで、特に巨木であるので文化財的価値が大きい。ムクロジは落葉高木で、一般に台湾、朝鮮及びインド・ビルマ(現ミャンマー)などに広く分布し、わが国においては、本州中部・南部・四国・九州など山林に生える。その実は一心皮が発達して球形となり、成熟すると黄色または黄褐色となり、ほぼ楕円形の硬くて黒い一種子を含む。この種子は正月の羽根つきの珠に、皮は石鹸の代用として使用されてきた(『伊丹の文化財』)。
 本殿西側に高さ約一・三六メートルの壮大な自然石の鬼貫の句碑があり「鳥は未 口もほどけず 初桜」と彫られている。陰影には、嘉永七年(一八五四)甲寅初秋に伊丹の俳人、山口太乙・岡田糠人・梶曲阜によって建立されたことが記されている。宝永四年(一七〇七)鬼貫四十七歳の時作で、碑石一面にこの区が雄渾に刻まれている(『伊丹の文化財』)。
 現在碑面の風化が激しく、危険が伴うので近寄る事が出来ない。
 神域の東の縁では七〜八メートルの断崖が残っている。奥の愛宕社が一段と高くなっており、神域の西側には北から南にかけて小高い丘が連なっている。これは戦国時代の有岡城の土塁の一部で、更に北側の伊丹緑道に入る低い場所は掘跡である。堀跡は発掘調査により幅約八メートル、探さ約五メートル、底の部分からは当時の堀の特徴である防御用の乱杭が多数出土したことで、ここに堀があったことが確認されている。
 この城跡は、後に農業用の水路の加茂井*として利用された。
 *加茂井は、猪名川から取水し、川西市加茂地区から伊丹郷町の村々を潤すための農業用の水路である。
  伊丹郷町の村々では、加茂井の水だけでは農業用水に不足することがあり、それを補うために鋳物師、今の緑ヶ丘公園に二つの池、すなわち昔奥谷上池・下地あるいは伊丹池といっていた池を築造して潅漑用水として加茂井に流された。
  この他は文禄年中(一五九二〜九五)のころに築造されたといわれている(『伊丹市史』第二巻)。
  現在この加茂井の一部は埋め立て、あるいは暗渠とし、伊丹緑道として利用されている。
  「神社史」によると「往昔野宮は天王町の西端を正面とせしものにして、宮崎町は其の馬場先なりき。宮崎町の名は之より起り、清水橋の用材の石は此の所に有りし鳥居の断片なりきと。其の後加茂井を暗渠とし、同時に清水橋も取り除かれしを以て今は無し」と記されている(宮崎町=『絲梅』第32号参照)。
 これらは有岡城惣構えの一部で、北の守り「きしの砦」又は「野宮砦」といわれ、神域全体と共に国史跡に指定されている。特に土塁や堀跡等は有岡城惣構えの外郭の一部として線で指定され、これは全国的にも珍しいといわれている。

参考文献
『伊丹の文化財』 伊丹市教育委員会 平成七年(一九九五)三月
『摂津名所図会』 秋里離島著 寛政八年(一七九六)
『猪名野神社』 御大典記念御屋根替事案完成記念 猪名野神社御屋根替事業奉賛会実行委員会 平成二年(一九九〇)四月
『地域研究 いたみ』第一七号 伊丹市立博物館 昭和六十三年(一九八八)三月
『伊丹市史』第二巻 伊丹市 昭和四四年(一九六九)八月

参考資料
「県社 猪名野神社史」 猪名野神社
「総代必携」 猪名野神社総代会 昭和五三年(一九七八)五月
「伊丹郷町における町境の成立過程と町名の移り変わり」 『絲海』第32号 伊丹市文化財保存協会 平成十九年(二〇〇七)六月

(伊丹市文化財保存協会 理事)

“歴史上の人物と伊丹”について
「伊丹市の丈化財保存に功績のあった山本賢之助さんの歩み」
益尾 宏之

 一 はじめに

 私はこれまで"歴史上の人物と伊丹"についての本欄で伊能忠敬、伴林光平、緒方洪庵をとりあげた。(1)いずれも徳川時代に活躍した人である。今回は昭和二十五年に郷里の島根県から伊丹市に来られ、亡くなられた昭和四十八年四月三日まで伊丹市文化財保存協会の事務局長の重責を担ってこられた山本賢之助さんをとりあげたい。(2)
 参考文献等
  (1)「伊能忠敬と伊丹」「絲海」第三十二号、平成十九年六月 「天誅租 伴林光平の伊丹における足跡」同第三十三号、平成二十年六月 「緒方洪庵に関係する人の伊丹における活躍」同三十四号、平成二十一年六月
  (2)山本賢之助さんについては平成十七年十一月荒木村重研究会「摂津の地誌・郷土誌に見る戦国武将荒木村重」の中で山本賢之助さんの業績等をまとめた。

 二 山本賢之助さんの略歴

 昭和四十五年十一月一日、昭和四十七年十月十五日、昭和四十八年四月十五日の「広報いたみ」昭和四十八年一月一日「絲海」第一号から山本賢之助さんの略歴は次のとおりである。
 昭和二十五年、郷里の島根県を出て伊丹市に来る。
 昭和三十六年四月、伊丹市立図書館長就任
 昭和三十八年十一月、伊丹廃寺保存会専務理事 事務局長。
 伊丹市文化財審議会委員長
 伊丹地方史学会長
 兵庫県文化財愛護推進協議会委員
 昭和四十年十一月、伊丹廃寺保存会を発展的に改組し、伊丹市文化財保存協会を設立。
 昭和四十五年十一月五日、文化庁から文化財の保護活動の功績で表彰を受ける。
 昭和四十七年十一月三日、秋の叙勲を受ける。(勲六等単光旭日章)
 昭和四十八年四月三日死去。七十五歳。

 三 山本賢之助さんの業績

 昭和三十八年十一月三日に伊丹廃寺保存協会が設立され、山本賢之助さんは事務局長になった。昭和四十年十一月十八日、伊丹廃寺保存協会が発展的に改組し、伊丹市文化財保存協会となり、引続き事務局長となつた。爾来昭和四十八年四月三日に亡くなるまで事務局長の職責を全うされた。
 その間市内の伊丹廃寺をはじめとする文化財を直接求めて歩き、史料つくりをし、その指定・保存に努められた。その史料の多くは博物館に残っている。代表的なものとして昭和二十九年に焼失前の近衛家会所があげられる。
 その他に昭和三十九年に伊丹空港の拡張計画に伴って解村を余儀なくされた中村や旧集落の移転前の岩屋の写真があげられる。(1)
 また市内の古い神社仏閣に標柱を立て、市民に文化財愛護を呼び掛ける一方、寺本公団、御願塚、南野地区の文化財愛護少年団の結成に力を注ぎ、若い世代に文化財の価値を教え、大切に守る心を育てた。その活動の芽は今日も若い世代に引き継がれている。
 山本賢之助さんは多くの著作を残しておられ、主なものは次のとおりである。
 (1)「伊丹の災害誌」 山本肩之介編(山本賢之助)毛筆で自著、発行年不詳(昭和三十五年八月以降) 昭和五十年九月十日伊丹市立図書館蔵書。その概要は
 亨禄二(一五二八) 八・十六伊丹城落城により火災。
 天文一八(一五四九) 越水城より三好長慶伊丹城を攻め城下に火を放つ。
 天正二(一五七四) 伊丹落城下火災。
 天正七(一五七九) 織田信長、有岡城攻撃焼土戦術により伊丹全土焼討〜昭和三十五年(一九六〇)八月二十九日台風十六号猛威 岩屋口酒井浸水までの伊丹の被った地震、火災、うちこわし、強奪等の災害を年表形式でまとめたものである。
 (2)「伊丹の歴史」昭和四十三年九月 伊丹ライオンズクラブ刊
 昭和四十三年一月から六回にわたって伊丹ライオンズクラブの会報に「伊丹の歴史」と題して古代・中世・近代に分けて発表したものをもとにまとめたもの。
 (3)「伊丹市の研究」
 昭和二十八年に山本肩之助名で書かれていたが、生前に刊行されていない。昭和二十八年ということがわかるのは末尾に添付されている「伊丹史年代表」で一番後に昭和二十六年「伊丹市図書館開設さる」がかかれてあり、「逆算年前」で「2」とあるからである。この本は昭和二十六年の市制十周年記念を意識してどこかで発表したものと思われる。その理由は「目次」の下に「研究発表」と書かれており、表紙の次に昭和十五年に制定された「市章」の説明があり、「伊丹市歌」が載せられているからである。
 「伊丹市歌」は昭和二十五年九月二十五日と十一月十日の「伊丹市公報」によると同年八月に市制施行十周年を記念して七十四人の市民からの応募から和仁敏之氏の作詞されたものが当選し、詩人冨田酔花氏が補訂したものが十月十日の記念式に関西交響楽団の大澤壽氏が作曲して発表されている。(2)
 和仁敏之氏は当時兵庫県立伊丹高等学校二年生の時応募したことを平成十四年十月に発行された「創立百周年記念誌」の中で「緑に薫る学び舎」と題して述べておられる。
 冨田酔花氏は俳人伊丹三樹彦さんが終戦後昭和二十年十二月から昭和二十五年九月まで伊丹市の宮前通りの一角に開いていた古本屋「伊丹文庫」の常連であった。(3)
 主な内容は第一章総説で伊丹の地名の語源、伊丹の酒、伊丹の系譜、有岡八景を概説。第二草で史跡を説明。その中で特に荒木村重に関心を持っておられることが分かる。
 「むすび」の中で次の文帝は市制十周年の昭和二十八年に書かれたものとしては今日の伊丹にも基本的に通じる力強さを感じさせるものである。
 「伊丹が往古豪族割據の年筆時代から抜け出して近衛家の領有時代となってから西国街道に沿った酒の街として大に遠近に伊丹の名が知られるようになったが、明治、大正、昭和の時代に入ってからは大阪、神戸の二大都市の急激な発展に挟まれた衛星都市として「静かな夢でも見えてる街」といったような存在になつて来た。之は長い伝統によって天領としてこの保守性が強く著しく街の発展を阻害してきたことによる。往古行基が猪名川の大笹原を開拓し勇気と大構想を継承してその遺跡昆陽池を中心に伊丹は大工業地帯、大住宅大観光地帯として伊丹空港と表玄関に阪神間枢要の地の利を活用して大伊丹と構成することも夢ではない。」
 (4)「伊丹史年代表」
 「伊丹市の研究」末尾に付録としてある。
 大和十九代充恭天皇 河迎臣川辺の地に派せられる。西暦四一三年 逆算年前(基準昭和二十八年)一五三五年から昭和二十六年 伊丹市立図書館創設されるまで
 昭和二十五年に郷里の島根県を出て伊丹市に来てから昭和二十六年までに「伊丹市の研究」伊丹史をまとめられたのは「伊丹史年代表」の基礎となる日本の古代からの歴史について熟知されていたことが分かる。
 (5)「実説秋月有岡城」
 山本賢之助さんが郷土史家として荒木村重に関心を持っておられた。ペンネーム「山本西玻」「山本芝根」で「実説秋月有岡城」を手書きで原稿用紙百十頁余の大作を著しておられる。
 天文十年摂津川辺郡の郡栄根城内での一世の風雲児荒木村重の誕生から有岡城をめぐる謀叛までの一生を克明にまとめあげられている。目次の見出しは次のとおり。
 一、栄根城内
  二、登竜
  三、戦国
  四、摂津平定
  五、信長
  六、村重謀叛
  七、有岡の硝煙
  八、有岡の一万騎
  九、秋月有岡
  十、戦塵の跡
  十一、散華
  十二、英雄の末路
 この作品は末尾に「昭和二十年十二月稿」と付記されている。
 この作品は前載の「伊丹市の研究」と共に昭和四十九年九月六日、篤志家から直筆原稿と写しの製本されたものが伊丹市立図書館に寄贈されている。
 (6)「伊丹氏の没落と荒木村重」
 「謎の武将荒木村重と伊丹城」の著者・香村菊雄さん(昭和五十八年三月、神戸新聞出版センター発行)がその作成過程で山本賢之助さんが荒木村重のことに詳しいことを知り、伊丹市文化財保存協会(伊丹市教育委員会事務局内)にその当時の事務局長松本一郎さんから前載の「実説秋月有岡」と共に見せてもらっているが伊丹市立図書館に篤志家から寄贈されているものには含まれていない。
 (7)「伊丹城主 荒木村重」
 山本賢之助さんは池田郷土史学会(林田良平)とも交流があり、昭和四十一年七月十日に池田市の中央公民館で伊丹地方史研究会長として「伊丹城主 荒木村重について」を発表している。(昭和五十二年五月「池田郷土研究」第四号)
 (8)新伊丹紀行(一)〜(三十七)(伊丹市広報昭和三十九年十二月〜四十三年三月)で発表された。昭和三十九年十一月郷土史シリーズに引続いて郷土史の実務家の立場から伊丹の歴史の中での秘話を中心にまとめた随筆である。荒木村重に関連するものが七回分あり、その項目をあげてみると次の通りである。
  (1)伊丹−難攻不落の名城に 日本最古の天守閣 (九) 昭和四十年十一月一日
  (2)有岡八景−ほとんどが消失 残る名句に昔をしのぶ(二十一) 昭和四十一年十一月一日
    (有岡八景の一つである「城山の秋月」にちなむ句
    曲阜木枯の残す姿やあらき山)
  (3)女郎塚の碑−有岡城の碑−婦女子数百人の大虐殺(二十三) 昭和四十二年一月一日
  (4)有岡のいわれー有明けが丘の略称ー薬師如来の伝説に因んで(二十八) 昭和四十二年六月一日
  (5)有岡落城秘史−村重説得の黒田孝高が虜に(二十九) 昭和四十二年七月一日
  (6)有岡落城秘史−(その二) 秀吉、有岡城に村重を諭す(三十) 昭和四十二年八月一日
  (7)有岡戦記−激烈なる攻防戦 寄手の将、万見千代討死(三十一) 昭和四十二年九月一日
 (9)「郷土の城のものがたり」 阪神編・伊丹山本賢之助さんの絶筆となったものである。
 山本賢之助さんが昭和四十八年四月三日に亡くなられる以前に郷土の城物語阪神編集委員会の一人として書いたものである。(昭和四十八年十一月 兵庫県厚生会発行)
 伊丹城(有岡城)その概要は次のとおり。
 ・有明けが岡
 中山観音の申し子荒木村重
 荒木村重 信長に仕える
 黒田官兵衛有岡城に捕えられる
 「有岡城主となった荒木村重は、主君信長を助けて仕えていましたが、あまり出世がはやかったので明智光秀などからねたまれ、本人の知らない間に謀叛人にされてしまって、やむなく天正六年(一五七八)部下一万騎とともに有岡城にたてこもり、信長に反旗をひるがえすことになりました。」
 ・秀吉と村重最後の出会い
 ・今は昔の名残りを語る鵯塚砦
 ・有岡城の惨劇
 参考文献等
  (1)伊丹市博物館『聞き書き伊丹のくらし〜明治大正〜』二十二、二十三頁平成元年三月
  (2)「−市制二十五周年記念-広報縮印刷版(創刊号〜第三四六号)五、六頁昭和五十年十月
  (3)「わが心の自叙伝 伊丹三樹彦」二九−文庫開店-神戸新開 平成五年四月十七日    「伊丹時代のこと」伊丹三樹彦「文芸伊丹」復刊第二号 二、三頁 昭和五十五年六月

 四 郷土史家山本賢之助さんと小林丹城

 郷土史家山本賢之助さんは昭和二十五年故郷の島根県から伊丹市に来てから伊丹の古代からの歴史を丹念に調べておられる。その際に昭和十一年一月二十日伊丹町で編輯発行兼印刷人・小林丹丈さんが創刊した「郷土研究伊丹公論」(終刊・昭和十五年十一月十日)を読んで研究されていたと思われる。
 小林丹丈さんはペンネームであり、本名は小林杖吉さんである。この伊丹公論については門脇良光さんが伊丹史学第二号(昭和五十年九月)で「雑誌『郷土研究伊丹公論』と補筆私立伊丹図書館−昭和初期伊丹の出版物−」でその概要と小林杖吉さんの略歴を紹介している。
 それによると明治四年十二月七日、鳥取市で生まれ明治三十五年に早稲田大学を卒業して後に大阪医学校(現大阪大学医学部)で教授となり英・数・地歴の教科を担当する。しばらくして同校を退職して出版社で字典類や教科書などの著述編集にたずさわった。
 著述業のかたわら伊丹市宮の前通りに『三余学寮なる私塾を開き、町内の師弟に英・数・地歴・簿記などを教え、明治四十六年六月に設立した私立伊丹図書館(館長小林杖吉)の蔵書として図書の閲覧・貸し出しを無料奉仕でおこなった。
 大正三年には巡回文庫を開始、蔵書は和漢書、洋書など四万冊にのぼり、昭和十一年度の「伊丹町勢要覧」によれば県下公私立図雷館中の第二位に名を連ねる主要国書館になっていた。
 しかし、この年から休館するようになり、昭和十八年に図書館を閉じ、蔵書四万冊を伊丹市に寄贈し、その後は伊丹地域の郷土史研究に専念したが、昭和二十二年(一九五七)三月四日、八十五歳でなくなった。(1)
 小林丹丈さんは大阪から伊丹に移住してきた時期は不明だが明治四十五年六月に図書館を開設しているので、その数年前と見られている。(1)
 小林丹丈さんは本名小林杖吉の名前が載っている明治三十三年三月に原著者 大槻磐渓講述者 富本長洲で大阪市の中川玉成堂から発売されている和漢書「鼇頭 詳解 近古史談談義 地」を偶然吹田市内の古書店で見つけた。その和漢書には同書 巻之三、巻之四の巻頭に「稲葉 小林杖吉 校」と記載されている。
 「伊丹公論」では伊丹氏の歴史を「伊丹往古年表」(其の一〜其の八)としてまとめ、その中で荒木村重についての歴史を北摂全体の中で研究しておられた。
 小林丹丈さん(本名小林杖吉)と山本賢之助さんとの具体的な係わりは分からないが、共通点があり、その接点は次のことがあげられる。
 (1)小林丹丈さんの出身は鳥取市であり、山本賢之助さんの出身は島根県とされており、その郷里は共通して山陰地方にあり近い。
 (2)山本賢之助さんは伊丹の郷土史の研究・詩歌に造詣が深い。雅号を山本肩之助と言い、伊丹の災害誌を書いており、筆名を山本西玻(山本芝根)と言い、実説秋月有岡城と言う小説を書いている。二人とも荒木村重について研究しており、小林丹丈さんにも「伊丹災害史」があり、戦国時代からの火災や災害をまとめている。
 (3)山本賢之助さんが伊丹に来た昭和二十五年から小林丹丈さんがなくなった昭和二十二年三月四日まで二人は伊丹市内で同時に生存していたことになる。(2)
参考文献等
 (1)「明治から昭和にかけて活躍 伊丹の郷土史家、小林丹城さん」 いたみティ六十四号 平成十七年七月
  「戦後活躍した郷土史家、山本賢之肋さん 伊丹の文化財の紹介、保存に尽力」いたみティ六十五号 平成十七年十月

 五 おわりに

 私が直接山本賢之助さんを直接見ているのは伊丹市役所に採用された昭和四十二年四月に新人研修で伊丹の歴史全般について説明を受けた時の一回だけであった。その当時山本賢之助さんは七十歳近かった。四十年以上経った今、伊丹の歴史に関心を持つ中で郷土史家の山本賢之助さんについて改めて学ぶ機会を持てた。
 郷土史家山本賢之助さんに特に関心を持たれた人に香村菊雄さんと瓦田昇さんがおられる。二人とも荒木村重について深く研究された人である。
 劇作家香村菊雄さんは「荒木村重の叛乱」の戯曲を伊丹市で上演するために荒木村重について調査している過程で伊丹史教育委員会の山本賢之助さんの名前を知るところとなつた。(1)
 「戦国の将村重の軌跡とその時代 荒木村重研究序説」を瓦田 昇さんがまとめあげる過程で山本賢之助さんと出会い、荒木村重の生没年について議論されている。(2)
 私は伊丹の歴史に登場する人物について関心を持っており、今後ともその学びを深めたい。
 参考文献等
  (1)香村菊雄 前載書二十頁
  (2)瓦田 昇「荒木村重研究序説」海鳥社 十一〜十二頁

(伊丹市文化財保存協会 会員)

日本第一の鳥瞰画叟
吉田初三郎画『伊丹市鳥瞰図』
〜昭和28年の伊丹〜
小長谷 正治

 終戦からおよそ八年を経て、戦後復興の槌音も高らかに響きわたっていた頃、伊丹市役所から一冊の観光案内が発刊された。B6版の折本で、表紙を開けると色刷り横長の「伊丹市鳥瞰図」が広がる。その長さ75センチメートル。この図左下隅には、「著作権者 京都祇園 吉田初三郎 版権所有者 観光社」とある。吉田初三郎は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図画家、生涯において数千枚の鳥瞰図を作成したといわれる第一人者、その画風は彼独特のもので「初三郎式鳥瞰図」とも称されている。
 彼は、明治十七年に京都で生まれた。一歳のときに父を亡くしたため、母方の姓の吉田を名のっている。十歳で友禅図案師に丁稚奉公し、二十五歳のとき洋画家鹿子木孟朗(かのこぎたけしろう)のもとで油絵を学ぶが、鹿子木から図案絵師、つまり商業画家の道を勧められた。大正三年、彼が描いた 「京阪電車沿線名所図絵」が時の皇太子殿下(昭和天皇)の目にとまり、「これは綺麗でわかりやすい、学友のお土産として持ち帰りたい」と絶賛され、以後、鳥瞰図画家としての道に迷いがなくなったという。
 大正から昭和にかけては各地に鉄道が整備され、観光ブームが到来した。鉄道沿線の名所旧跡を案内した鉄道旅行案内に彼の鳥瞰図は向いていた。横長の絵は、折りたたみ式の携帯用案内図にちょうどいい。彼の最盛期の頃は、彼が経営する「観光社」から数々の鳥瞰図が作成されていった。彼の鳥瞰図の特長は、鉄道沿線図と名所図、それに都市図を一定の方法で組み合わせたところにあるという。その「初三郎式鳥瞰図」の特徴は、中心部を拡大して描くことにあり、描くべき場所についてはその拡大率を変え、極端にデフォルメしている。また、決して見えるはずもない場所も構図に取り入れているところは面白い。
 さて、「伊丹市鳥瞰図」を見てみよう。この作品は、伊丹を文化田園都市として市内外にアピールするため、伊丹市役所が吉田初三郎に依頼したものである。本図が掲載された観光案内の冒頭には、当時の坂上善穂市長の製作依頼の経緯が記されている。それによると、「わが伊丹市は東は大阪府に連なり、西に六甲連峰を望む北摂平野の中心部であって、銘酒の誉れ高く自然の景勝を具える文化田園都市である」とし、「文化田園都市を標榜するだけに市域全般に亘って、観光に価すると云えよう」と、観光に対しての力の入れようがうかがわれる。そして、「本図発刊にあたり、斯界の権威吉田初三郎画伯及び、関係諸賢に対して深甚の謝意を表し、本市観光の資ともなれば誠に幸甚である」と結んでいる。
 本図の構成を見ると、手前に瀬戸内海、市街地の両側に猪名川・武庫川を、背後に北摂の山並みを描いて市域の範囲をあらわしている。鉄道沿線を描くことを得意とする彼らしく、下方に阪神・阪急神戸線、両側に阪急宝塚線と今津線を橙色であらわし、山陽本線・福知山線は地図表記のとおり、黒白で描いている。市役所や消防署、当時保安隊第三管区総監部と称していた自衛隊の公共建物は外観を忠実に描いているところはリアルである。また観光名所はその名称を赤く塗ってわかり易くしている。市内の観光名所は、伊丹国際空港、猪名野神社、緑ヶ丘公園、昆陽寺の四カ所である。猪名野神社や昆陽寺の建物配置もほぼ忠実に再現されている。小中学校はその所在地に校舎を描き、東洋リノリウム会社、住友電気工業会社などの建物配置もほほ誤りがないものと思われる。このように地形や建物をデフォルメしながらも、建物の外観や構成を忠実に表現できる理由は、彼が製作に取りかかる前に現地に赴き、描くべき施設・名勝の然るべき取材調査を行っていることである。別の鳥瞰図のことであるが、今でも彼が鳥瞰図作成にあたって取材した写真資料が残っているという。
 「初三郎式鳥瞰図」の特徴の一つは、遠方の景色の導入である。鳥瞰図は空を飛ぶ鳥の目線で描く、バーズ・アイ・ビューであるから、かなり遠方の景色まで取り入れることができるが、彼の鳥瞰図にはとてもそこまでは見えないだろう景色まで描かれている。本図の右端(方角では東)には、淀川をはさんで大阪城があるのは当然としても、その上方には京都が、さらにその上には大津と琵琶湖、そして背後の山々まで、本図左側(方角では西)では神戸と淡路島と思われる島までが描かれている。
 北摂の山並みの中にあって一際鮮やかに、詳細に描かれた一角がある。箕面公園である。箕面の滝、寺院の伽藍、そして燃えるように赤く描かれたもみじの紅葉である。箕面といえばもみじの紅葉、本図の中で唯一季節が表現された場所といえよう。
 この「伊丹市鳥瞰図」を載せた伊丹観光案内には、伊丹の名所の写真と説明書きもある。先の四カ所の観光名所に加え、宮前商店街や「苺つみ」と題する制服の女子学生がイチゴを摘む様子の写真もある。とくに説明がないが、市内の下河原や西野地域ではイチゴ栽培が盛んだったと聞いたことがあるので、あるいはそれかとも思う。昭和二十八年当時の伊丹の様子がうかがわれて実に楽しい。
 本図は伊丹市役所が観光案内を発刊するにあたり、吉田初三郎に制作を依頼したものである。今年は、市制施行70周年にあたり、それを記念した「伊丹市70年のあゆみ」と題する企画展の準備中に市民の方から伊丹市観光案内の寄贈を受けた。この原図があればと思っていたところ、本館収蔵庫に保管されていることがわかった。「灯台もと暗し」とはこのことであろう。原図は傷みが激しく、色落ちもしているが、縦57センチメートル、横201センチメートルの大作。夏季企画展で展示いたします。来館お待ちしています。

(伊丹市立博物館長)