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目次
・5世紀のイナノについて一考察 …………………………………………………1
・会誌「絲海」について一考察………………………………………………2〜4
・猪名野神社の年中行事………………………………………………………5〜8
・幕末・維新と伊丹ー村に官軍がやってきたー……………………………9〜10
・博物館からのお知らせ 夏季企画展………………………………………10
・事業の計画、回顧・編集後記………………………………………………11〜14

5世紀のイナノについて一考察
中畔 明日香

 伊丹市の中心市街地(中央・伊丹)から、尼崎市の塚口にかけては、かつてたくさんの古墳が築かれていた。それらの古墳を総称して「猪名野古墳群」と呼んでいる。しかし、現在、古墳として形状の残るものは数基しかない。
 その中でも、市内に残る御願塚古墳は、江戸時代に墳丘上に宮が鎮座したことから、その杜として近代の開発からまぬがれ、昭和四十一年に県により史跡の指定を受け、今日まで大切に保存されている。
 御願塚古墳は、墳丘だけで全長五十二メートルの規模をもち、5世紀第3四半期頃に築造された帆立貝式古墳であったことが、近年の発掘調査の結果明らかになつた。さらに、祭祀を執り行う造り出しをもつとともに、当時の天皇陵級の立派な埴輪をめぐらし、2重の濠までめぐらした古墳であることが判明した。
 古くから、孝徳天皇(596?-654)の墓との伝承もあるが時期が一致しない。同天皇は、磯長陵(大阪府太子町)に葬られたとされている。そこで、「御願塚の主は誰か?」と迫ってみることにしたい。
 5世紀は、いわゆる「倭の五王」の統治した時代である。五王には、中国の正史や古事記、日本書紀を照らし合わせ、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略を当てるのが一般的な理解である。このうちの最後の天皇である雄略天皇の在世期間が、ちょうど御願塚古墳その雄略天皇十二年十月条(『日本書紀』)には、「猪名部御田」、ついで同十三年九月条(同)には「猪名部真根」という人名が見える。この2人が実際に存在した人物かは不明であるが、彼らはともに木工と記載されている。それも非常に秀でた技術を持っていたとされており、天皇近くで職に就いていたとされている点が興味深い。その猪名部は「猪名川流域のとくに…現在の尼崎市猪名寺を中心とする地域」に居住していたと(『伊丹市史』第四巻)にある。
 一方で、応神天皇三十一年八月条(同)には、猪名部等の始祖は、新羅王が使わした匠だとある。つまり、猪名部の祖は朝鮮半島から来た工人たちだったということになる。
 以上の記述が全て事実とは到底言いきれないが、秀でた木工技術をもつて天皇に仕えた集団がこのあたりにいて、古墳は、その長あるいはその一族の墓で、中には、「御田」や「真根」の墓も含まれていたかもしれない…と考えてみると、猪名野古墳群への見方も色を持ってくるのではなかろうか。

 *新羅…古代の朝鮮半島南東部にあった国家。
     (356-935)

 今秋の歴史・文化が醸し出す伊丹ロマン事業では、御願塚史跡保存会が、御願塚古墳を含めてもっと「御願塚」の地域を知ってもらおう!とイベントを計画中です。是非、皆様のご参加をお待ちしております。なお、貴会には当初より同事業に参加いただき、この場を借りてお礼申し上げます。今後とも、地域に残る文化財の愛護・啓発活動に一層の参加・協力をよろしくお願いいたします。

(伊丹市教育委員会事務局生涯学習部 主査)


会誌「絲海」について一考察
内堀 睦夫

一、はじめに
 伊丹市文化財保存協会の会誌「絲海」(いとうみ)は、第三十五号まで発刊を積み重ねてきた。また、平成十九年度から毎年「リレー講座〜絲海学〜」を実施している。
 よって、「絲海」は協会には定着した語となっている。
 「絲海」は有岡の里伊丹の古名であるという。
 伊丹の俳語宗匠で伊丹の町を愛し、その歴史を誇りにしていた梶曲阜がまとめた「有岡古続語(乾の巻)」(元治二年一八六五)に「古名」の欄で絲海について、次のように記している。
 「今風流を嗜しむ人の丹丘といひ絲海と書し、又は伊水などいふは、皆地名を俗ならぬやうに作り出せしにて、昔より此名ありしにもあらす」
 そのころ風流をたしなむ人が、有岡の里伊丹を丹丘(昼も夜も常に明るいという意味か)と称し、絲海と書いたのだろう。
 よって「絲海」の由来について考察する。

二、「絲海」の由来
 (一)照顔斎見聞録

 梶曲阜の有岡古続語(坤の巻)の照顔斎(梶曲阜)見聞録の欄に次のように記している。
 「有岡の地を絲海とも又糸績(糸をつむぐ)」とも言也、応神天皇御字(天皇が治めていた時代)に漢人池田へ呉服(呉織)・穴織の二女わたり(渡来する)織事を教ゆ也、其比今の木ノ部をハ絹延(池田市・猪名川中流左岸・呉服・穴織の二女が絹をのべてさらしたことによる)と言也、伊丹ハ糸績也、皆此辺ハ呉服に連理(つながっている)ありてむかしの名なり、
 糸海と言ハ神代西海より入海二ての名なるへし、其証拠にハ・・・・・・・・・
 神代にハ大物浦より今の伊丹・池田辺、東ハ吹田・江口のほとり迄入江にして通舟あり、又所々に小嶋ありて浜津有と見ゆ、
 古歌に・・・この外和歌あまたあれど略す」
 と記している。これによれば「糸海」というのは、

ア、応神天皇の御代に、池田へ呉織・穴織の二女が渡来して、機織りを教えた。
イ、神代に入海(海が陸地に入り込んでいる所)になっており所々に入江があって小さな舟が行き来していた。それで糸海の名が出来た。ということである。
 この二つの説について考察する。

 (二)「糸海」は機織と関係

 応神天皇の世、文化の発展に少なからぬ役割を果たしたのは、大陸・半島から移住してきた渡来人であった。
 大和政権はこれらの渡来した技術者を専業集団として組織し、畿内各地に分地した。これら渡来人の中で、特に大きな役割を果たしたのは秦氏と漢氏である。
 この時代、後漢の後裔と称する阿知使主が子の都加使主と十七県(地方公共団体の一つ)の民をひきいて来朝した。この子孫が東漢氏で、大和南部を本拠として、各種の技術者集団をひきいた。
 この二人は応神天皇によって南中国の呉国に遣わされ、織工女を求めた時、呉王より呉織・穴織ほかをあたえられ、連れ帰り住吉津に上陸した。(このころ、応神天皇崩御され仁徳天皇即位)
 現在の池田地方や猪名川ぞいに居をかまえ、機織りの業をおこした。
 呉織は伊居太神社に、穴織は呉服神社に祀られている。なお、伊居太神社には応神天皇・仁徳天皇、呉服神社には仁徳天皇をも合祀している。
 また、秦の始皇帝の後裔と称する弓月君が百清から一二七県の民をひきいて来朝し、養蚕・機織りの業をもって朝廷に奉仕した。その子孫が山城の太秦に本拠をもつ秦氏になったという。
 彼らは畿内地方では淀川の中流から上流のあたりに集中して住み、勢力をのばしていった。その一族は摂津にも分かれ住みつくようになった。
 豊島郡の奏上・秦下の両郷、また、有馬郡の播多郡(播多郷?)などは秦氏の住んだ地域と考えられている。
 川辺郡の秦氏の中に、川辺郡坂合郷に居住したとあるが、これらの秦氏はだいたい今の伊丹市域を中心に住んでいたことが推測される。そして秦氏がのちのちまで、この地方で繁栄していたことが知られる。

 (三)「糸海」は、海進によって入海となり、入江のある景観と関係

  伊丹台地の東側段丘に立つと、猪名川が削り取る侵食作用によって一段と低くなつて、淀川方面まで見渡すことができる。
 そして現在でもこの範囲には桑津、津島、豊津、潮江、加島、出来島、中島など津や島の名が多数残っている。
 また、「難波の浦」や「昆陽の浦」を詠んだ古歌が残っている。
 風流を嗜なむ人は、大昔このあたりは入海になっていて、所々に入江があって舟の往来があったと、その景観を想像しただろう。
 この人たちは古代の歴史について知識をもっておられたのである。

 神代における「入海」

 論は少しはずれるが、入海はどのようにできて、どのようになっていたかを考える。
 地球の温暖化がはじまり、海水が上昇して、約一万年前に当時の海岸線は第二阪神国道付近にあった。その後海進は続いて、五〇〇〇年前
くらいまで続き、海岸線は阪急電鉄神戸線付近まで達している。
 この時代は縄文時代である。
 その後気候が寒冷化し、海岸線は海退していき、二三〇〇年ぐらい前の弥生時代に現在のような姿になっている。
 一方、猪名川方面に目を向けてみよう。
 約一万八〇〇〇年前、気候が寒冷化し、海水面が下降して大阪湾は干上がってしまった。
 そこに注ぐ河川は、土砂を削りとり深い川筋となつていった。河岸の壁は一〇メートル以上に達している。
 伊丹台地の東側段丘は、この時猪名川によって礫層が削られてできた。
 その後、温暖化とともに海進がはじまり、海岸線が阪急電鉄神戸線付近までに達すると、低くなっている伊丹台地の東側は海水が奥深く川
西・池田まで進入した。
 その後、この入海は山から流れてくる土砂によって再び埋められ、広いはんらん原となつていった。猪名川は多くの分流をつくり、流路を変更しながらはんらん原を拡大していった。そして、猪名川のほとりは沼地と湿地の多い広々とした河原となった。
 その中のわずかな高まりを利用して人々の生活がはじまった。
 縄文時代の終りごろから稲作が行われた。
 伊丹飛行場の側の岩屋遺跡では、弥生時代前期に自然の河川を堰き止め、人工の水路を通して水田に水を導く施設が発見された。
 弥生時代から古墳時代にかけての田能遺跡・口酒井遺跡・森本遺跡など集落跡が見つかり、人々の生活がうかがえる。

 三、おわりに

 曲阜が活躍していた当時の伊丹の俳諧人である可大・糖人・梅陰・晩香・曲阜・古礁・米女の吟歌仙六巻を収めた歌集「いとうみ」を編集
している。

 序に
 「此六歌仙を糸績集と名つくるは、むかし呉服に連り(むすびつく)ありて糸績の里といふよし、その後糸海伊丹となる、われわれの俳諧も又糸をうむ (つむぐ)に似たり、こたひ可(この度か)大叟(長者)を片羽(織物用語・経糸)として、その強につらなり弱をたとり、あやしくもひと巻宛ずつを捻り出して(よじって)いとうみ集となしぬる事しか言
                照顔斎  曲阜
   安政六未六月
 と記している。

 伊丹市文化財保存協会の「会誌」作成の目的は曲阜の「糸績集」作成と同じである。
 伊丹に存在する貴重な文化財を一つ一つ集めて「いとうみ」集とする。
 会誌の発刊開始に際し、「糸海」が最も適当と考えられたのだろう。
 今後、会誌「絲海」を会員の交流の場として利用していきたいと思う。
 伊丹市文化財保存協会の会員には、伊丹の歴史に詳しい人やそうでない人もおられる。そして伊丹の文化財を愛し、会員として誇りを持っている人たちである。
 何か見つけたことや昔の思い出・感想・和歌や俳句などを気軽に投稿できるような会誌でありたいと思う。

参考文献
 いとうみ  梶曲阜著 柿衛文庫蔵書
 伊丹の伝説 付有岡古続語 伊丹市教育委員会
 「伊丹市史」第一巻 伊丹市
 「大阪市史」第一巻 大阪市
 大阪府地名大辞典 角川書店
 兵庫県地名大辞典 角川書店
 日本古代人名辞典 吉川弘文館
 日本史研究 笠原一男著

(伊丹市文化財保存協会 副会長)


猪名野神社の年中行事
山本 喜輿士

 前号で猪名野神社の歴史や境内の様子を取り上げたが、本号では現在猪名野神社で行われている一般拝観等ができる年中行事の主なものを
紹介してみたい。

  一月一日 歳旦祭(さいたんさい)
 年の始めにあたり、国家の安泰と氏子・崇敬者の健康を祈願する。
 毎年朝七時に行われる。
 毎年初詣には、多くの人が参拝に訪れる。

  一月十日  十日戎(伊丹戎祭)
 終日福箕・福笹等が授与(販売)され、午後七時より大地主神社で戎祭が執り行われ、多くの市民が福を求めて買い求められたり、参拝される。

  一月十五日 とんど
 門松、注連縄、一年間お守りいただいた神札、守護矢、御守を焼却し、お迎えした歳神様をお送りする行事で、また他にも悪いものを追払う意味もある。
 その火で餅を焼いて食べると、無病息災になると伝えられ、多くの方が持ち寄られている。

 各月の一日 月次祭(つきなみさい)
 毎月 朝八時に行われる。

  二月三日(又は四日)節分祭
 節分祭は、鎮魂祭とも星祭ともいい、厄除祈祷が随時執り行われる。
 豆まき行事が午後七時から行われる。
 神社の境内では福火が焚かれ、多くの市民が厄除けを祈願して訪れ、終日おみくじ付福引と甘酒が振舞われる。
 この日には煎り豆を歳の数より一つ多く食べる習慣もあり、また歳の数より一つ多い豆を紙に包み、家族でまとめて神社にお供えする風習もある。

  四月二十三日 春季祭
 午前十一時の祭礼は、拝殿で神楽が奉納される。
 午後一時から執り行われる新宮神社(前号参照)の三社祭では、深湯(しんたん)行事の奉納がある。

 午後三時からは、護国神社で英霊慰霊祭が執り行われる。

  六月三十日 六月大祓(ふみつきおおはらえ)
 夏越祓(なごしのはらえ)・夏越祭(なごしのまつり)ともいい、日頃知らず知らずのうちに身体に取り憑いた罪・穢れを、身代わりの人形(ひとがた)に託し、心身ともに祓い清め、夏の暑さを乗り切り、無病息災を祈願する祓いの神事である。
 紙の人形に、各自の干支、性別、年齢を書き込み、その人形で自身を撫で、三回息を吹きかけて罪・穢れ・災いを転嫁する。
 人形は、各氏子に配布されるが、無い場合は神社の社務所にあり、二十九日中に心持ちの祈祷料を添えて社務所窓口まで持参すれば三十日に祓いの祈祷をしてもらえる。

  七月十六日 夏祭
 午前十時の本殿祭では、拝殿で神楽が奉納される。
 午後二時より深湯祭があり、拝殿前で深湯行事が執り行われる。
 深湯祭(湯立祭)とは、湯の花行事、湯花神事等の名称がある。
 起源は『古事記』『日本書紀』に、天照大神が岩戸にかくれた時、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が手に草花を持って舞った神話がある。
 湯立(ゆだて)祭における湯立神楽も、この岩戸舞いにもとづき、草花の代わりに竹の小笹を持って舞うようになった。
 湯立の起源は、『日本書紀』に盟神(くがたち)探湯という言葉が出てくるが、元来、罪や信仰の有無を調べる手段として起り、徳川時代になってこれが神事として行われるようになったといわれている。
 釜の中の湯を神子が、小笹で辺りに振りまき神子自身は全身にその湯をかぶる事により穢れがないことをその身で示し、参拝に来た氏子の罪穢れを祓い清め、氏子が弥栄えることを祈る神事である。

  末社夏祭は、
 七月二十一日に稲荷祭。
 七月二十五日に、天神祭。
 八月二十四日に愛宕祭が執り行われる。

  秋季例大祭
 十月第二土曜日 宵宮祭
本年は十月九日 午後三時より
 十月第二日曜日 秋季例大祭(秋祭)
本年は十月十日 午前十時より
午後二時より御神輿の巡幸

 御神輿の巡幸は、猪名寺の元宮まで巡幸していたが、福知山線の複線電化に伴う途中の踏み切りを渡ることに安全上の問題があり、現在は踏み切りの手前までとなっている。
 午後六時より境内で武道奉納が行われる。
 本来、宵宮祭は、十月十三日、秋季例大祭は、十月十四日に執り行われていたが、近年社会情勢により、十月の第二の土曜日と日曜日に執り行われるようになった。
 上、写真左側の神輿の鏡には、「元禄十五年壬午 八月吉良日 金剛院法印密浄 奉寄進野宮牛頭天王御輿子孫繁栄所 上島勘四郎治房」と刻まれている。
 また神輿内部には、「明治三十年十月吉日調整所 大阪東区安土町三丁目 鈴木源右衛門」と墨書され、明治三十年に修理されたことが分かる。
 この神輿について、絵馬堂に掲げられている扁額には、次のように記載されている。

  元禄十六年上島勘四郎治房初メテ当
  社ニ神輿一基ヲ奉納ス之ヨリシテ渡御ノ
  儀起リ赤来年ヲ重ネテ盛大ヲ加へ以テ今
  日に及ヘリ而シテ神輿々丁二関シテハ専ラ
  伊丹相撲仲ノ奉仕二依リシカ後故アリテ任
  ヲ辞スルニ至り代ッテ染ノ川親瀬尾親柴
  屋等二与り管理スルトコロトナル所謂神輿
  強力仲卜称シ代々相伝へ遂こ渡御祭中
  ノ異形トシテ連年奉仕セサルコトナシ然モ時
  勢ノ赴クトコロ図ラズモ本年大祭こ先立ッ
  テ解散ノ止ムヲ得ス愛惜堪へ難キモノアリ
  コ、ニ則チ額面ヲ揚ケ以テ関係者ノ名
  ヲ録シ永クソノ功ヲ伝フル所以ナリ
    昭和三十五年十月一日
     猪名野神社宮司  近重眞民
        昭和三十五年十月十五日製
   神輿強力仲代表
    岸田吉太郎
    吉住関太郎   岩田 梅吉
    柄谷 米吉   木村 未蔵
    豊崎市太郎   住吉嘉一郎
    岸田 清一   池永 時吉
    漆原清太郎   吉住尾登治
    福原常治郎   立野  清

 同、写真右側の神輿の中には、次の銘がある。
  「昭和五十三年十月十三日
   猪名野神社御神輿大修理
   寄進者 岸田元治郎  」

  七五三詣
 十月末日まで祈祷を受ける事が出来る。
 (ただし、電話予約が必要)
 従来は十月十五日行われていたが、近年は十月中旬から十月末日までをその期間として祈祷が行われるようになった。

 これら猪名野神社で執り行われる行事は、拝殿前や各々神社で拝観が可能であり、伊丹郷町の氏神として、古くから初詣や十日戎・節分秋祭りなどには多くの参拝者が訪れている。
 参考までに、「総代必携」に記載されている「神社参拝の作法」を転記する。

 神社参拝の作法
一、神社の境内に入る時は、礼儀にかなった身のこなしで 容儀を整え)、帽子やコート等を脱いで参道を進みます。
一、手水舎で手を清め、口をすすぎます。
一、神前に進み、賽銭をあげ、ニ拝ニ拍手一拝して神前を下がります。
一、祓詞(はらえごと)、祈願詞を申し上げる時は、ニ拝の次に祓詞、祈願詞を奏上、次にニ拝、ニ拍手、一拝の後神前から下がります。
一、特別の参拝祈願のある時は、神職に申し出て参拝します。
一、玉串を奉げる時は、玉串を右手で元の方を持ち、左手は、玉串の先の方を下から軽く受けて神前に進み、元を一旦手前に引き、時計の方向に廻して元を神前に向けて玉串案の上に置き、ニ拝ニ拍手一拝して神前から下がります。

【参考資料】
 「総代必携」 猪名野神社総代会
   昭和五三年(一九七八)五月

(伊丹市文化財保存協会 理事)


幕末・維新と伊丹
  −村に官軍がやってきた−
小長谷 正治

 慶応ニ年十ニ月五日、徳川慶喜は将軍宣下を受け、十五代征夷大将軍に就任した。しかしその頃、既に将軍の権威は失墜し、薩長による倒幕の動きは激しくなつていくばかりであった。翌年には薩摩 長州に土佐藩・芸州藩が加わり、慶喜に大政奉還を迫った。慶応三年十月十四日、慶喜は大政奉還を上表し、将軍職の辞職を申し出たが、幕府の職制などは当面は残されることになった。とくに通常の外交事務は将軍の権限として残ることになった。これを嫌った討幕派は将軍職の辞職、幕府・摂政・関白などの廃止、天皇親政を求めたクーデターを計画し、十ニ月九日に「王政復古の大号令」が発せられた。慶喜はニ条城を退去し大坂城に移ったが、一方江戸では旧幕府派による薩摩藩邸の焼き討ちが行われた。江戸の情勢が大坂に伝わるや、旗本や会津・桑名藩士などが討薩摩の気勢をあげ、王政復古に対抗するため上京を目指した。慶喜率いる旧幕府軍は、慶応四年元旦からニ日にかけて大坂を進発した。これに対し、薩摩・長州軍はこれを迎え撃ち、兵力劣勢ながら旧幕府軍を撃退した。世に言う鳥羽・伏見の戦いである。このとき討幕派は、仁和寺宮が征討大将軍に任じられ、賊徒(旧幕府軍)追討の錦旗がかかげられることになった。五日にはほとんど旧幕府軍は瓦解し、慶喜は軍艦開陽丸に乗り江戸へ脱出したが、討幕派は攻撃の手を緩めず、慶喜追討令を出すとともに、幕府領の没収を宣言した。
 伊丹の近衛家領では、王政復古によって摂家(摂政関白になれる家柄)の名称がなくなったことから、惣宿老は近衛家が「前左大臣様」と呼称されるようになったことを町中に触れたという。御一新の影響は伊丹にも訪れていた。
 さて、博物館には、御一新を物語る制札が収蔵されている。その一つが「慶喜追討令」 の制札である。建てられた年号は記されていないが、追討令が出されたのは、鳥羽・伏見の戦いの後、慶応四年正月十日のことである。

  制札
徳川慶喜天下之形勢不得巳ヲ察シ
太政返上将軍職辞退相願候ニ付
断然被間食既往之罪不被為間
列藩上座にも可被仰付之処登
図んや大坂城え引取候旨趣素より
詐謀ニ而去三日麾下之者引率し剰へ
帰国被仰付候会桑先鋒として
閣下を奉犯候勢現在被より兵端を開候
上は慶喜反状明白始終奉欺
朝廷之段大逆無道其罪不可逃此上ハ
於朝廷御宥怒之道も絶果不被為得
巳御追討被仰出候抑兵端既ニ相聞候上ハ
速ニ賊徒誅数万民塗炭之苦を被為救度
叡慮ニ候間今般仁和寺宮征討将軍被
任候ニ付而は是迄倫安息情ニ打過キ或は両
端を抱き或は賊徒従ヒ居候ものたり共真ニ
悔悟憤発国家之為尽忠之志有之
輩は寛大之思召ニ両御採用可被為
在候尤此御時節ニ至り不弁大義賊
徒ニ謀を通候或は潜居為致候者は
朝敵同様厳罰に可被処候間心得遠
軽之様可致候事

 この慶喜追討の制札に、去る三日とあるのは、鳥羽・伏見の戦いの開戦日のことである。慶喜が会津藩・桑名藩の兵を率い、慶喜から兵端を開いたのは明らかで、これは朝廷を欺く大逆無道のことであると指弾している。また、これを追討し、万民を塗炭の苦しみから救うという決意がこめられている。旧幕府軍は、朝廷に刃向かう賊徒となった。
 慶喜追討令とともに、新政府は「農商布告」を出し。幕府領の没収を宣言した。幕府領であった天領のみならず、慶喜同謀の三卿(一橋家など)・旗本の領地も没収の対象となった。これにより、伊丹地方など西摂諸郡には長州兵が入ってきた。十五・六日には伊丹近郊の御願塚村に大坂参謀方取次役所がおかれている。御願塚村は旗本三家の相給入り組みであり、領地没収の対象地であった。長州兵は村々の郷蔵を封印し、村方には郷蔵の残米の保管を命じている。
 博物館には、これに関わる制札も保管されている。「辰正月廿四日」付けの「官軍先鋒長州」の制札である。制札には、「徳川領地同家臣領地被召上候」とあって、天領のみならず旗本領も没収の対象になること、困窮者には下向(村方)で救助することにして、人民安堵して朝廷の御沙汰を待てと命じている。
 実際、この官軍先鋒長州の制札が、伊丹地方のどの場所に建てられていたかは記録がないが、戊辰戦争当時の伊丹地方の混乱の様子が生々しく語られて興味深い品である。

今般
王政復古之折柄徳川軍勢
於伏見表ニ叛逆依之征討将軍
被差向候ニ附而は徳川領地同家臣
領地被召上儀ニ附御政事向等従
朝廷可被仰出候得共夫迫之
処は年貢其他旧廻ニ依るへし
尤難差置事件は速ニ廃止し
困窮者は下ニおゐて精々救助
人民安堵せしめ慎而
朝廷之御沙汰可相待候事
   辰正月廿四日
      官軍先鋒
        長州

 大政奉還、王政復古によって成立した新政府は、慶応四年三月十四日、天皇が天地神明に誓うという形で、天皇親政を柱とした政府の基本方針を発表した。世に言う「五か条の誓文」である。そして同日、旧幕府の制札をすべて撤去し、代わりに五枚(第一札〜第五札)の制札が建てられることになった。「五榜の掲示」である。博物館には、このうち、第一札から第四札が収蔵されている。
 これらの制札・高札は、博物館の夏季企画展で展示する予定。初公開です。ぜひご来館ください。

(伊丹市立博物館長)