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目次
・恋する「荒木」を追いかけて・・・・・1
・新会長挨拶・新役員紹介・・・・・2
・ワシントンの桜物語・・・・・3〜8
・「白洲屋敷」の調査から見えてきた近代史の一ピース・・・・・9〜13
・江戸時代の酒都"伊丹“・・・・・14〜15
・博物館からのお知らせ 夏季企画展・・・・・15
・事業の計画、回顧・編集後記・・・・・16〜18

恋する「荒木」を追いかけてー
〜上田宗箇と有岡城〜
中畔 明日香

 「荒木」といっても殿方ではありません! 残念ながら。「荒木」とは、有岡城主だった荒木村重(?〜1586?)が所持したことにちなむ茶碗の名前(笑)。さらに、干利休が所持し、徳川家康へ。その後、尾張徳川家初代・義直へ譲られ、現在は徳川美術館(愛知)の所蔵品なり。「高麗茶碗」ともよばれますが、考古学的には中国南部で焼かれ、一般的に大量に輸入された呉須絵陶器碗と考えます。伊丹の文化財担当者として、つねづね「荒木」には惹かれていたのですが、大名物であるこのお茶碗殿、めったとその姿を現わさず、お出ましになってもそれを知るのは会期後と、まるでつれないそぶり。恋しさは募るばかり・・・。
 昨年度末のある日、地方紙の男性記者から一本の電話が。「今、広島でウエダソウコ展を開催していまして、その関連で有岡城の取材に伺いたいのですが。」と。ウエダソウコ、はて?それは何?誰?有岡城とどう関わるん?と頭の中で?が増殖。相手もその様子を感じとってか、「武将茶人で有名なウエダソウコの初陣が有岡城なので、その関係で、今回の展示に「荒木」高麗が出ていまして。」と。えっ!「荒木」が出ている?茶人の上田と言えば、古田織部の茶の弟子・上田主水( 重安)のことか?と頭の中ははたまたグルグル。ひとまず電話を置き、要点をメールでやり取りすることに。
 上田宗箇(1563〜1650)とは、やはり主水(重安)のことで、晩年、宗箇と号し、広島城主・浅野家に仕えました。生誕450年の今年、「上田宗箇ー武将茶人の世界展」が広島県立美術館で開催されました。宗箇の初陣が、織田信長重臣・丹羽長秀(1535〜85)のもとの居城・有岡城だったことに因み、かの「荒木」が出品されているとわかりました。
 記者は来ました広島から、はるばる。この方、かなり戦国時代、いや何より上田宗箇を愛していました。有岡城に案内すると、「ああ、ここで宗箇は、一番槍を目指して、城壁に登る際、股を槍で負傷してしまうのですね。」と感慨深げ…。何ですって?そんな話初めて聞いたやん!宗箇が一番槍目当ての武将になる元が有岡だったのも、有岡城に城壁があったなんかどこに書いてるん?とこの記者から聞く話は何もかもが???
 「これに書かれています」と見せられた史料は、上田家に伝来してきた、宗箇に関する古文書(上田家文書)を市教委が整理し報告書として刊行したコピー。そこにある有岡城に関する文書は2つ。(以下、部分略し写す。一部中畔加筆。)
 「長秀城ノ正門ヲ攻ム。翁(=宗箇)、・・・城墻ヲ超エントス。・・・忽チ墻下ニ堕ツ。」(『宗箇翁伝』)、「衆ニ先ンジテ闇ニ乗ル。敵、槍ニテ股ヲ刺ス。堞宇ニ顛墜ス。」(『宗箇翁伝』)とある。
それらには、城壁とは書かれていない。それより見たこともない、「墻」・「闇」・「堞」の字。何これ?城の、惣構の有岡城の何を指すの?漢和辞典を引くと、墻(墻)は「①かき。かきね。② ついじ。土塀」、闇は「①城(町)の外くるわの門。外城の門。上に闇(物見台)がある。」と。本当に有岡城のどこにそんな構造物があったと言うの?そもそも主人・荒木のいない城へ一番槍っていうことはどういうこと?教えて〜!
 そんな様々な思いを持って、いざ広島、「上田宗箇展」最終日。「荒木」はありました。直径約14cm・高さ7cmと思ったより大振り。「粗悪っ」と思わず口に出してしまいそうな、焼きの悪い、染付の色も悪い、出来損ないの碗。これに楚々とした美意識を見出す当時の茶人の境地には、修行も勉強も足らない。「荒木」(=荒木村重)とは両思いにはなれそうもない、辛い気持ちに…。私の有岡城攻略はまだまだ時間がかかりそうでございます。

*大名物…足利将軍家が所持していた道具(東山御物)や、利休に最高位に評価された茶人などを指す。
*「上国家文書調査報告一上田家家政資料集成
           一上田家茶書集成」
  発行/広島市教育委員会
  編集/政治史茶道史研究協議会
  平成十七年(2005)を参考にしました。
(伊丹市教育委員局生涯学習部社会教育課 主査)