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目次
・牛頭天王と織田信長、そして猪名野神社。・・・・・1
・惜しまれる60年前の「近衛家会所」跡の喪失・・・・・2〜4
.有岡城跡から出土した「彫三島」茶碗・・・・・5〜9
.荒木村重に関する新出史料について・・・・・10〜11
-事業の計画、回顧・編集後記・・・・・12〜14

牛頭天王と織田信長、
そして猪名野神社。
中畔 明日香

 「午頭天王」をご存じですか?神仏習合によって我が国の長い歴史の中で形態を変えながら、崇敬された神(仏?)です。京都の夏を物語る「祇園祭」で有名な八坂神社は、この午頭天王が御祭神です。
 江戸時代末まで、牛頭天王を祭神とする社がたくさんありました。しかし、大政奉還・王政復古により明治天皇をトップとする新政府は、御一新に乗り出しました。いち早く取り組むのが、いわゆる廃仏毀釈で、左記のような命令・通達が次々に出されます。
(1) 太政官布告(慶応四年三月十三日)
「此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭実モ可被為興儀、被仰出候、依テ此旨五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神、玉、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡問、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事…以下略」
→王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告される。
(2) 神祇事務局ヨリ諸社ヘ達(同三月十七日)
「今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧杯ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候…以下略」
→神社に於ける僧職の復飾の命令が発せられる。
(3) 神祇官事務局達(同三月二十八日)
「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事…以下略」
→神号を仏号で称えることの由来書の提出。
 政治を武家に頼る前に立ち返り、天皇が政治と祭事を執り行いますというもの。僧により神事を行うことを禁じ、寺と社を完全に切り離すよう指示されました。午頭天王信仰に対しては特に厳しいものでした。何故なら、信長・秀吉・家康以降、徳川幕府により庇護されてきたからです。

 信長は、宗教弾圧をしたことが非常に有名ですが、「長篠の戦い」を前に熱田神宮にて戦勝祈願をしたこともよく知られています。
 また、当時、尾張地域だけでなく、東海地方、広く東日本における牛頭天王信仰の中心であった「津島牛頭天王社」(現津島神社、愛知県津島市)を、信長は崇敬していました。織田家紋の木瓜紋は、この杜の紋と同じで、織田家は当社を氏神として信仰していたと伝えられています。豊臣秀吉も社殿を寄進し、江戸時代には尾張藩主により神領が安堵されていました。廃仏段釈時、仏教的な建物・信仰が全て廃され、現在、健速須佐之男命を主祭神とします。
 信長は、比叡山や本願寺を弾圧し、三木合戦や荒木村重との戦い等において、播磨・摂津国他で多くの社寺を焼き払いましたが、牛頭天王やアマテラス・スサノオ等の神々を尊ぴ、これらを把る社寺を襲うことはありませんでした。
そのため、急速、祭神を変える社寺もありました。

 現在の猪名野神社(伊丹市宮ノ前)は、スサノオノミコトを主祭神としています。江戸時代は、金剛院(同)の別宮で「野ノ宮」や、また「午頭天王社」・「天王社」と呼ばれていました。そのことから、牛頭天王も杷られていたことがわかります。
 王政復古に際し、金剛院と宮を完全に分離するため、金剛院の管理下から、宮を独立させるにあたり、「猪名野神社」と号し、国の神祇官に属する宮司(神主)を置くことになったのです。
 当社は、荒木村重が有岡城主だった時、有岡城惣構に配された3 つの砦の中で、北端に置かれた「きしの砦」があった地です。案内の際、「砦があった時、すでにここは神社だったのですか?」という質問をよくうけますが、全くわかりません。
 この砦は、3つの砦の内、唯一、信長軍に落とされなった砦です(守備していた軍勢が、信長軍が来る前に逃げた可能性が高いのですが)。
もし、信長との戦いの際、すでにこの地に午頭天王が記られていたら、信長の軍勢はこの砦を力づくで攻略していたでしょうか?信長軍が、惣構西端の上臆塚砦を破り、そこからいっきに突入し、侍町に攻め上り火をかけ、「はだか域」にしたことを考えると、きしの砦はすでに社だったのではなかろうか、と思うのです。
*慶応四年…西暦一八六八年。同年九月八日に明治と改元。
(伊丹市教育委員会事務局生涯学習部社会教育課副主幹)