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目次
・行基と大仏さまが2つの猪名部をつなぐ……………1 ・幕末の長州と伊丹 〜西国街道を中心として〜………………2〜7 ・古墳時代の難波と猪名川流域…………………8〜12 ・博物館のテーマ展「旧村シリーズ」について…………………13〜14 ・事業の計画、回顧・編集後記………………………15〜17
行基と大仏さまが
2つの猪名部をつなぐ
中畔 明日香

 猪名部という冠がついた神社が、伊丹・尼崎市内に広がる旧猪名野エリアでなく、遠く離れた三重県いなべ市にある。猪名部神社(旧員弁郡東員町北大社) である。猪名部神社のHP を開くと「第40代天武天皇皇居跡」というタイトルが目に飛び込んでくる。それはさておき、ま ずH P 内にある由緒を読んでみよう。
移住してきた豪族との融合豪族といわれる。第必代元明天皇の和銅6 年(713 )勅命により、 猪名部の族名が転じて「員弁」とされた。奈良 の大仏「東大寺」は、第店別代聖武天皇の天平口 年(745 )8 月から建立され、猪名郎氏の猪名 部百世が大工(棟梁)、飛騨の妊の益田縄手が 少工(副棟梁)として完成した。この世界最大 の木工建築物は技術の粋を集めて建立され、そ の総指揮をとった猪名部氏が建築技術に優れ、 宮中に仕えた名工として日本書紀にも登場し、 実に著名であったことが判る。 (小略)当社の創 建時代は明らかでないが、延立ロ式内社(905 年 の延喜5 年に、勅命により藤原時平が、ペ時の仰社を 延長式神明帳に記載した神社) に列し、(以下略こ 猪名部というと、平安時代に編纂された「新 撰姓氏録」の摂津国諸蕃の項に、百済同の人 「中津波手(なかっはてこの子孫の為奈部首(い なべのおびと)の記載がみられ、猪名部を管理す る伴造と考えられているつ さて、猪名部百世は、生没年一小話。天平京ハf 2 年(758 ) 8 川、木工京長k て花Lハ位上、vr 経料の銭250 文・紙却張を納め、大般若経の 世一回写に関わっている。神護対雲一川年(76 7 ) 2 月、称徳天皇の東大寺行幸に際して同守造営 の功労者に授位があり、外従五位下に、また従 四位下で伊勢守兼東大寺領掌使に任じられた (「大仏殿碑文」「東大寺要録』)とも伝わって いフ心。 ここで「お水取り」で有名な東大守. 一川堂修 二会で読み上げられる過去帳の初段を凡ょう。 「大伽鹿本願聖武皇帝聖円阜大后坑光明主 后行基菩隊本願孝謙天皇不比等右大臣 諸兄左大臣根本良弁僧正当院本願実忠利尚 大仏開眼導師天竺菩提僧正供養講師降尊律 師大仏脇士観音願主尼信勝同脇士虚空蔵願 主尼蒋光造寺知識功課人大仏師同公麻呂 大鋳師真凶高市真麿鋳師柿本男玉大工猪 名部百世小工話回純手(以下略こ 点大寺と行基との関係は周知だろうが、少し おさらいしておく。行基は天平日年、東大寺大 仏造立のため勧進活動を行い、同口年に大僧正 に任じられたが、大仏の完成を見ず、天平勝宝 元年(749 )に亡くなったc 大仏は、聖武天皇により紫香楽宮の造常が開 始された天平日年(743 )叩日月日日に発せられ た虚舎那仏造顕の訊から9 年を経て、天一千勝宝 4 年(752 )4 月、開眼供養会が盛大に厳修さ れたc その後、治水4 年(1180 )、平重衡の 軍勢により、大仏殿をはじめ東大寺の伽藍の大 半が焼失したため、現在の大仏殿は猪名部百世 が造ったものではなく、江戸時代に再再建され たもの= 創建時の大仏と大仏殿は、「信貴山縁 起絵巻〈尼公の巻〉」( 写真I )に描かれたものが 有名ですι 摂津と伊勢に分かれた猪名部だが、王権に木 工技術で仕え、行基と深く関わっている共通点 は親近感がある。技々のU の仰に併すこの仏に は、行基の怨いが詰まり、fH 叶いが監督して建築 された伐に約400 年守られていたのかなどと 思いを巡らせながら大仏に’川き合、っと、またい つもとは違うお顔を拝めるのではないだろうか。 *伴造(とものみやっこ)H 大化改新前に皇室所布の部 などをネい、その職業によって朝廷に奉仕した中央 の中ド隔の栄族。その姓は造・首・速が普通c *木工波長上TLH常勤の技術駄作山口
(伊丹市教育委員会事務局生涯学習部社会教育課長)